荒れ小屋

ごめんなさい

20170107架空の日記

・新年の目標を立てたい。
自分の仕事の充実は言うまでもないけれど、もう少し娯楽とか息抜きを充実させたい。映画を見たり、ドラマを見たり、ゲームをしたり。旅行にも行きたい。あと、語学を頑張りたい。それから、絵を描きたい。同人誌を出したい。かわいい本を作りたい。絵は描けない。
2018年になる頃には何一つ達成出来ていない気がする。そうだとしても、なんとなく残された時間がもう少なくなってきている、そういう予感がある。特に大病をしているわけではないが(こう書くと死亡フラグかもしれない)、夢想をしていないと不安になる。
何かを残したい、何かを残したい、青山に土地を買いたい、「俺はやるぜ」「何を」「何かを」。
まずは日常の自分の生活を充実させることが大事なのかもしれない。健康な暮らし。でも、日常の自分の生活を充実させることだけが大事だとは思えない。自分のエゴの塊をどうやったら後の世に残せるか、みたいなことを考えてしまう。悪しき権力者はだいたい変な像をつくる。

・生活のなかにいるから、実際の生活臭に嫌気がさしてしまう。この前見た某映画がテレビのニュースだったかワイドショーだったかで「苦難のなかでも生活を大事にしている描写が評価されている」のように紹介されていて、かなり吐きそうになった。僕は生活が嫌いだ。生活を許さない。でもごちうさは好き。(ごちうさは生活ではないのだろう。)

 

・『薄花少女』4巻を読んだ。モノクロの筆致で生活、くらしを細やかに描いている。繊細なタッチで積み上げられた世界には幻想が滑り込み、また張り付いている。
梅酒を飲み前後不覚となる鳩子(ハッカばあや)がもし幼女ではなかったら、自分はその人を始末に負えない存在とみなして険しい顔をしただろう。(この「もし…」の話は、幼女ではない、という否定的な規定をするに留めたい。仮に幼女ではなく、老いた人、と言ってしまい、ある種の(疑似的な)対立を述べてしまったなら、それは配慮の欠いた一線を越えた表現となってしまう気がする。)
さらに、史の母親がすでに亡くなっているにも関わらず、酔いのためか、そのことを鳩子が忘れてしまっていた場面について、僕はグロテスクだと思った。この点については、認知症の記憶障害を連想してしまったというのが正直なところである。(前記したことを覆すようであるが、これは「老人」と「認知症」を結びつけた連想であり、この点は非常にナイーブな連想である。)確かに記憶の混濁は酔いによってもたらされたものであるものの…。

ここまで書いていて、相当程度自分自身が「老い」に対して好ましからざる感情を抱いていることが炙り出されているし、そのことに向き合いながら読まなければならない。単純に「ロリババア最高~」と手放しで言える作品ではない。
二人の生活の描写が、仮に史による鳩子の介護生活の描写であったら、僕はそれに「尊さ」を見出すことが出来ただろうか?
もし、今この作品で見ている彼らの生活が、実は独身男性と祖母の二人暮らしであり、そこにある種の幻想のフィルターがかかって読者に提示されているのだとしたら?
実際の生活においても、性差、年の差関係無く、困難はあっても、支え合える関係があればそれが「尊い」のかもしれない。この仮定が間違っているかもしれないという点は置いといて、もしそうだとするなら、僕はその尊さを受け容れられるまでには至っていない。

 

・これまでmixiFacebook、別のブログで書いた日記をひとつにまとめたい。まとめたところで…という感じだが、もし自分に何かあった時に、それだけ見てもらえれば、という配慮。(しかしそのまま載せるわけにはいかないと思う。もどかしい。)

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20161121架空の日記

・しばらく日記を書く余裕がなかった。8月下旬からの予定を簡単に振り返ろうと思う。と言っても、ここに書いてることはすべて空想です。

 

:8月下旬:二泊三日の調査に出かけた。某大ヒット映画を見た。
:9月初旬:地域研究関係(ざっくり)の学会を覗きに行く。来年は報告したい。それから帰省し、実家の片付けに明け暮れる。途中、関西の知人とごはんを食べたり。
:9月中旬:研究会で外部から人を呼ぶということで、懇親会のセッティングや会計に悩まされる。それからゼミの合宿に行く。
:9月下旬:研究会や読書会をこなしつつ、学会報告の準備を進める。
:10月初旬:学会報告のために西の方へ。特に観光もせず、トンボ帰りで知人の結婚式に出席する。またゼミ合宿パート2にも行く。とにかく出費の多い2ヶ月だった。
:10月中旬~下旬:学部生のためのゼミを開くので、その授業準備をやりつつ、Proceedingを突貫工事で書く。また11月〆の論文×2本の執筆準備。10月末の学会報告の準備。個人的には割と忙しいスケジュールだった。他の人はもっと忙しいので、忙しいと言って良いのかわからないが。(まあ忙しさ自慢をしても仕方がない。)
:11月初旬~中旬:論文を投稿。リジェクトされるかもしれないと思うと恐怖で、先日は掲載不可の通知をボスから直々に渡される夢まで見た。それから、11月中旬の学会(というか海外の大学との交流会)の準備。先のProceedingがあるとは言え、スライドを作ったりしなきゃいけなかった。あまりプレゼンの練習も出来ないまま本番を迎え、質疑応答で失敗してしまった。

 

合間合間に研究会もありつつ…とは言え一日中何も出来なくて寝てるだけの日があったり、家事をこなしてたら半日以上潰れたりの日があったので、ずっと仕事していたわけでもない。勤め人と比べたら遥かに楽な日々なのだろう……。また、自然科学系の知人から研究室こもりきりとか研究室に泊まったとかそういう話を聞くので、不甲斐ない感じがする。(と同時に自分にはどんなスキルが身についているのか?手先が器用なわけでもない、実験器具の管理等の研究室マネジメントの能力があるわけでもない、語学も凡(凡以下)、プログラミングだって縁遠い。)まあとにかく、周りの雑音とか気にせず、鈍感であるべきところは鈍感で、自分にとって必要なことだけ考えたい。自分との闘い……。

 

・ブログには感想を残していなかった気がするが、だいぶ前に劇場版遊戯王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONSズートピアを見に行ったのだった。あと最近見たやつだとキュアモフルンの出て来るやつ(ある種、敵役の愛情の押し付けがましさとか、俺だけを愛して欲しいという欲望や欲求(例えばハピネスチャージでも出てきたはずのモチーフ?)を見てつらい気持ちになった。まるで自分のみにくい姿を見ているようで。)、このせか(絵描きの人が見に行くと結構な喪失感を味わうことになりそうな。自分は生活の描写云々を語るよりも喪失感の方が大きかった。また空襲のノイローゼ感とか…)。
特にこの日記で感想を書くわけではないが、なんとなく今年は映画館に行くことが多かったなと回想する(11本)。と言っても、アニメ映画を見るために映画館に足を運んでいるという状況なので、もう少し幅を広げた方が良いのかな、という気分にもなるし、一方で別に無理に見る必要ない、自分の見たいものだけ見れば良いじゃん!というエゴな気分にもなる。聲もきんモザもまだ見ていないなあ。アイカツスターズはいつの間にか終っていた。漫画も読みっぱなしで、気が向いたら感想を書きたい。

 

・実際にフィールドに出る調査をするとして、その場で見たものをどう描写するのか、皆どのように描写しているのかが最近気になっている。理念型?色々方法はあると思うが、とにかく自分の見たい現象や状況などにある概念や術語を用いて、調査対象としての輪郭を与えていく作業は難しいと思う。某人は、事実をして語らしめるという態度こそ避けて通るべきだと考えていたらしい。自分の認識や価値を絶えず問い直す過程が不可欠だと思う。

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20160821架空の日記

・この歳になるまで歳相応に経験すべきことをあまり体験してこなかったことに対する負い目が拭えない。割り切って生活すればいいとも思うけれど、もやもやしたまま過ごしている。書くこともないとそんなことばかり考えている。
 次の世代に何かを残すことを試みても、伝えられることは拙い修学の経験くらいしかない。もちろんそれを伸ばして活かす道もある。「何もしてこなかった自分」の意識が邪魔をする。自尊心が欠如している。(拙い経験でも、嘘をついて誇張やハッタリをかませば、引っかかってしまう人も世の中にはいるのかもしれない。自分のお世話になった小学校の先生をひとりの成人として見つめなおした時、今の自分は何を思うだろうか。)
 伝えることばかり意識しても、そもそも何かを後続の人に伝えることが即良いことなのかどうか、わからない。とりあえず何か、自分の「仕事」を半永久的に残しておいて、自分の見知らぬ誰かが後世その意を汲みとってくれれば良い。そういう傲慢さに支えられてかろうじて自分は生きているのかもしれない。(職能的なノウハウの引き継ぎとか、そういうことはよくわからない。)

 

・自室の床に資料を積んでいるのがあまりに不格好だったから、とりあえずカラーボックス(二段)を三つ購入した。普段使わない利き腕の筋肉が張っているのがわかる。プラスドライバーで棚板のネジを締める作業で首から肩にかけても痛めてしまった。
 昔に授業でもらった資料や、読みそうもない(だけど重要な)新書はスキャンする頃合いに来ていると思う。

 

・会う人会う人に「太った?」と言われることが増えた。食べる量が増えた。運動もしない。典型的な肥満に突き進んでいる。ダイエット日記始めたいと思う(始めない)。
 歯も少し悪くなってきた。自己メンテナンスをしないと乗り切れないのがつらい。最近、やっと風呂あがりの化粧水を使い始めた。心が擦り切れるばかりだと思う。

 

・特に進捗があるわけではない。毎日ほんの少し資料の要約を進めている。作業量が明らかに不足している。もう辞める頃合いかもしれない。

 

・テレ東で『秒速5センチメートル』を流し見た。散々語られてきたであろう作品でありながら視聴したのははじめてだった。例に漏れず自分も何か思ったこと感じたことを書き残しておきたいと思う。
 空の描き方は綺麗なんだろうな、これが綺麗とされている空なのかなと思った。空の延長に果てしない宇宙があることを改めて気付かされた。空をまじまじと見ることもなく、空というのが独立した空間であるようなお粗末な認識で日々を過ごしているから。
 一方、2話「コスモナウト」の海や波の描き方というのは、よくわからなかった。どこに違和感を覚えたのか自分では説明することが出来ない。綺麗か綺麗じゃないかというと、勢いはあっても、あまり綺麗な波や海ではなかった気がする。無理矢理にこじつけるなら、花苗の内面には適しているのかもしれない。思春期は色々悩ましい。
 1話について、1995年当時はやはり時刻表で旅程を確認したり、手紙でのやりとりを続けていたりする。随分アナログな小道具が配置されているから、物理的な距離の遠さを必然的に誰しも感じざるを得ないし、やきもきしてしまうポイントだと思う。とにかく手間がかかる。
 そういうわかりやすい距離や遠さとは対照的に、2話の遠さはどうしようもなく他人にはわかりにくい距離感を主人公は抱えている気がした。誰に送るでもないメールを携帯(PHS?)で打つ。主人公が理想に思う初恋の相手は、果たして別の地で今生活しているその人と同じなのかどうか。的外れかもしれないけれど、思い出になっていくその体験が崇拝される偶像に段々となっていく。そんな感じがした。(主人公がやっている弓道はその一方で努力すれば的に当たるし、距離も測ることが出来る。ロケットとかそれに付随する良い場面とかメタファーとかはよくわからない、特に考えてないので省略したい。)
 わかりやすいフック故に距離にひきつけて適当に言ってしまうのはよくないのかもしれない。二人の間の距離のわかりにくさとか遠さは当人達にしかわからないのではないか、いや当人達もどう語るべきなのか、思い出にする、時間に任せる、流れ行く生活に任せる以外の選択肢を持っていないのかもしれない、とか、そういうことを思った。
 話は変わるけれど、1話の最後でヒロインが言う「大丈夫だから」は何が大丈夫なのか?その「大丈夫」にどのような意味を込めたのか?この時点で自分はヒロインのことが何も理解出来なかった。遠くに行っても主人公はうまくやっていける、ヒロインという存在がいなくてもなんとかやっていける、凡庸な「大丈夫」の含意のひとつふたつしか思い浮かばなくて、きちんとそこは手紙渡しておけよ…という気分にもなってしまう。(また見直す機会があればちゃんと考えたい。)
 あと、「遠さ」と「近さ」(駅で再会してから)の両極端さに触れることで、互いの距離感が掴めなくなるというのはあるのかもしれない。しばらく離れていたのに、あまりにも急速に二人が近づくことで「自分が自分ではなくなるような感覚」に襲われたとして、その感覚に責任を持てるのか、自己を保存出来るのか、自己を保存出来なくなる恐怖みたいなものが彼らにはなかったのかどうか気になった。
 

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20160811架空の日記

・昨年の9月に祖父が亡くなった。先日、法要があり、母の実家まで向った。母と叔母の折り合いが悪い。勘弁して欲しい。認知症の祖母は相変わらずであった。自分の母親の介護の段階になったら、自分はどうなるのか、何をしてしまうのか。今心配しても仕方がないことだが。
 父親は今思い返すとモラルハラスメントの常習的な加害者だったように思う。それは今この時点で言葉を与えるとするならそうだ、ということであり、単に癇癪持ちで粗暴な性格であっただけなのかもしれない。
 戦前生まれの彼は僕が上京してすぐに亡くなってしまった。そのことについて、自分は喜ばなかったと言えば嘘になるだろう。

 何度も何度も亡父との諍いを夢に見る。苦しめられているのか。

 

・何を「正常」、「合理的」とみなすかは置いておいて、仮に正常で合理的な判断をすることの出来ない成人に囲まれて生活していると大概の子どもが感じたとしても、「家庭」という集団・組織の存続においては「非合理的」な挙動の方が「合理的」という場合がおそらく多いのではないか。有り体に言えば、組織存続においては合理的な性格を持つ肉体的・精神的暴力を行使することが出来る成人。

 

・巷で言われる「毒親」ほどはひどくは無いように思う。すべての家庭には暴力がつきまとう。だからよくある一例であるとも思える。
 そろそろ「毒親」について、卒業論文程度のものが出てくる頃合いかなと思う。AC問題とどう重なりあうのか、等個人的に知りたいことは多い。

 

・「ディストラクション・ベイビーズ」を見に行った。暴力の連鎖によって彩られた作品だと思った。簡単に思ったことを残したい。
 まず、怪物的な暴力、暴力が生の一部となっている主人公に触発された少年が繰り出す暴力はあまりにも惨めであった。要は自分よりも力では劣る「女性」を殴りたいと思うような暴力の惨めさである。その少年は、普段つるんでいるグループの中ではビビリな「陰キャラ」のように思われる。おそらく権威に弱く、後ろ盾を求め続ける性格であろう。この点が、ある意味では滑稽さを醸し出しており、惨めに思われた所以である。
 少年がSNSを用いる描写についてはあまり好みではなかったが、突発的な暴力から逃げる者を記録する場面には惹かれた。その記録には暴力を楽しもうとする少年の声も記録されている。「女を殴りたい」という発言然り、鑑賞する者の衝動を刺激するような描写に思えた。
 個人的にその少年はあまりに「凡庸」であると感じた。彼は、怪物と共に過ごすことで徐々に主人公に畏怖の念を抱くようになり、また主人公から承認・認識されないことに苛立ちを覚えるようになる。
 少年は暴力に「意味」や「価値」を見出していた。しかし、主人公にとって暴力は価値を持つものではない。というのも主人公は息をするように人を殴り、食事をするように人を殴る。ひたすら暴力を遠巻きに映す場面によって、暴力がそこにあるという認識が呼び起こされるが、それ以上の作用は無い。
 最終的に主人公は故郷に再び上陸する。その場面の静かな戦慄が、喧嘩神輿の喧騒と対比される。無意味な暴力が何らかの意味を持つのだとしたら、まがい物の暴力(通り魔少年や喧嘩神輿)が破壊される時においてであろう。(ここで見出される意味や価値も、実のところ天災みたいなもの、としか言いようがないのかもしれない。)
 もうひとりの主人公である万引き女について。とにかく利己的で底意地が悪い造形がされていた。
 どういう意図や構造を持つ作品なのか述べることが難しい。おしまい。

 

・また、某怪獣映画も見に行った。やはり破壊によってもたらされる気持ちよさがある。いかに破壊されるかを楽しんで見た。

 

・暴力の経験を語ることは難しい。語ろうとすると心が乱れる。整理して語るにはそれなりの技量がいるように思える。何かを読み、学ぶことに仮に意義があるのだとしたら、言葉にすることが難しい経験について言葉を尽くすこと、言葉を尽くすことでもやもやした気持ちを沈めることにあるのだと思う。それはともすれば診療的な意義になってしまう。何か、政策としてこうしたら良いのではないですか、という提言をすることにはならない。「非合理的」な心の動きに対して、図式にあてはめる形ではなく、光を当てるにはどうしたら良いか。言葉を紡ぐことで救われる何かに目を向けたいと自分は考えているのか、と思ってしまった。それは「解釈」という方法ともまた違う。「解釈」と言ってしまったら雲散霧消してしまう何かもまたあるような気がしている。

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20160808架空の日記

・気がつけば4月以降の更新が無かった。5月6月と毎週のように報告が続き、特に6月末と7月の中旬は学会大会での報告だったので、体感的には慌ただしい日々だったように思う。
 6月末の学会ではフルペーパーに近いものを用意したので、それなりに時間をかけたつもりである。もちろん、まだ読み込みの足りないところや、検討の余地のあるところは多くあるから、それらを改善して論文に近づけられると良いなと思う。7月中旬の学会ははじめての英語での報告だった。以下、気づいたことを書き残しておきたいと思う。

 

・一日目、乗り継ぎ含め十数時間のフライトを終え、現地のホテルに到着したのは23時過ぎだった。最寄り駅とホテルの間は目と鼻の距離だったが、夜で看板が見えなかったこと、はじめての土地にも関わらず地図が手元になかったこと、海外用にフリーSIMを用意してなかったことなどが災いし、20分30分ほど地下鉄駅の近くをうろうろとしていた。比較的治安の良い都市であると聞いていたがそれでもかなりの恐怖だった。キャリーケースを引きながらの移動も苦痛だった。最初からそうすればよかったという話ではあるが、やむなく駅の売店でサンドイッチを買い、そのついでにホテルの場所を聞いた。先にも述べたように文字通り目と鼻の距離で、地下鉄を出て横断歩道を渡ればすぐの場所に位置していた。

 ホテルに着いてからも、自分の客室の番号を間違えたり、カードキーの使い方がわからず右往左往したり散々だった。その日は早々に就寝した。部屋がやたら豪華?であまり落ち着かない。居間部分(一階)と寝室ロフト部分(二階)が分離したタイプの部屋だった。

 

・二日目、自分のiPadiPad用のUSBメモリを用いての作業がなかなかうまくいかず、しびれを切らす。同じ学会に来ている知人(同じ研究室の人)に頼み、ノートパソコンを一瞬使いたいと頼み待ち合わせの約束をする。件の知人の泊まっているホテルに向ったはずが、実は別地区に建っている同じ名称同じ系列のホテルに行ってしまい、知人に結局迎えに来てもらうことになった(○○ホテル1に行くべきが、少し離れた○○ホテル2に行ってしまった)。大変な迷惑をかけてしまった。
 ホテル近くの日本食屋で昼食を取る。寿司も蕎麦も、まあこんなもんか…というもの。その後、学会会場となる大学に向かい、学会のレジストレーションをする。もらった学会パンフレットが分厚かった。コミケのカタログほどではないが。タンブラーが着いてきたものの、無料で水等を汲める場所は無かった。それから、自分の報告する会場を下見に行く。ラウンドテーブルでのセッションになったので、大教室とは違いこじんまりとしていた。
 夕方以降、開会式、懇親会と続く。新しく研究者と知り合いになるわけでもなく、とりあえず同じ研究室の人を見つけてしばし雑談。料理は小さなサンドイッチがメインだった。

 

・三日目、学会は二日目。午前中、歯ブラシと歯磨き粉を忘れてしまったため、ホテル近くのスーパーに買いに行く。昼はそこで購入した寿司と焼き餃子。午後、知り合いに会い、一緒にいくつか報告を見て回る。報告はピンキリだったように思う。
 夜、研究室の教員や知り合いの研究者達と一緒に居酒屋街に出かける。路面電車で20分ほど行ったところにある居酒屋街。飲み食いしていると、やたらとアブかミツバチが飛んでいて落ち着かない。野外のテーブル席での飲食だった。報告前日なのに、それも翌日の報告は午前9時からなのに酒飲んでもいいのかとほんの一瞬躊躇したが、躊躇しただけだった。みんなほろ酔い気分でそれぞれの宿に帰る。

 

・四日目、学会は三日目。午前は自分の報告のセッション。9時からのトップバッターだった。全体で90分の時間、4人の報告者ということで、ひとり15分の報告×4、残り30分の質疑応答という流れを想定していたが、実際はひとり20分ほど報告時間を使ってしまったため、質疑応答は10分ほどだった。
 自分の報告は、パワポのスライドも用意し、また読み上げ原稿も配ったので、最低限の準備はしたと思いたい。やはり発音やプレゼンの仕方には課題が残る。それらについては準備不足だった。
 二番目の報告者は、読み上げ用の自分用メモのみを持参し、最初は英語で話していたものの、途中からスペイン語に切り替わった。僕以外はそれなりに内容を理解しているように見えた。セッションが英仏スペイン語の使用が可能であったとはいえ、少しは配慮してほしいように思った。また、スライドも用意していなかった。三番目の報告者は、スライドのコピーを配ったうえで、英語でプレゼンをしてくれた。四番目の報告者は、フランス語のスライドとプレゼンだった。固有名詞をつなぎながら、内容を想像するしかなかった。
 質疑応答について、自分の報告については四番目のフランス語を用いた報告者が質問をしてくれた。なぜその対象なのか、という話からはじまり、ある程度想定問答として用意していたことを切り貼りしながら答えたつもりではあるが、そもそも相手の質問の趣旨を理解出来たかどうかも心許ない。これもまた次回解決すべき課題だと思う。

 

多少脱線するが、プレゼンの仕方も人それぞれだということに気づいた。
(1)読み上げ原稿を配り、スライドをもとに報告する。
(2)スライドをもとに報告する。
(3)読み上げ原稿もスライドもなく、フリースタイルでただ話すだけ。
特に目についたのは(3)のパターンである。日本での学会ではあまり見かけないパターンではないかと思った。また、スライドを用意していても、大教室で見えづらい、文字が小さい等のデザインの問題も関わってくるように思われた。

この日は大学近くのレストランで夕食。知人が頼んだスープがやたら塩辛かったようだ。

 

・五日目、学会は四日目。研究室の教員とメンザで昼食を取る。色々な部会の報告を聞く。
・六日目、学会は最終日。フェアウェルパーティーで色々な人と知り合う。報告でのやりとりだけでなく、このような食事の場での情報交換も大事そうだがなかなか慣れない。
・七日目、観光日。有名な博物館とケーキ屋に行った。
・八~十一日目、隣国へ移動。現地で在外研究をしている知り合いに案内をしてもらう。帰国。
マクドナルドでの食事が最後の2日続いた。クレジットカードでの支払いが可能だったので甘えてしまった。ホテルの近辺が盛り場で少し治安に不安を覚えた。

 

・こうして書き出してみるとたいしたことは無いが、それなりに疲弊した旅だった。3年前にはじめて海外に行った時と比べれば、この二回目の渡航で少し勝手のわかっていることもあったが、それでもここで1年間過ごしてください、と言われたら困難だろうなと思った。特にオチは無いがこれでおしまい。

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20160409架空の日記

・新年度がぬるりと始まった。残務整理がそろそろ片付きそう。

D課程に進学する人は年々減っているらしい。(頭にある伝聞情報なので、根拠もへったくれも無い。)肌感覚では、Mに入学した人達の半分程度、場合によっては3分の1しかDに行かない。そうなると、研究室の事務仕事の配分がやりにくい。ひとりの院生がやらなければならない細々とした事務仕事が、本業以外にある。

例えば…

:ゼミの運営…メーリングリストの管理、懇親会や合宿の手配(Mに任せても良い業務もある)、国外から研究者を招待する場合には講演会の準備(昨年度の場合は講演原稿の下訳を分担してつくり、当日の質問要員にもなった。)

:研究会の幹事…メーリングリストの管理等

:研究室の院生の取りまとめ…色々な要望をまとめる仕事。部屋や蔵書の管理等も。

:学会年次大会の手伝い…これはまだ担当していない。当日の会場の設営、会費の徴収等?学部生から比較的下の年次のDまで幅広く手伝うはず。

:学会雑誌等、各種発行物の編集業務…今年度は雑誌の編集業務を手伝った。割と大変だった。もう少し大きいJournalだとどうなるのか…。

:TA/RA…授業や実習等の手伝い。

助成金関係…提出する書類が定期的に(特に年度末)ある。これは個人の業務。

他にも色々あると思う。D4にもなると、非常勤で教える仕事も降ってくるらしい。

 

・教員としては「複合的な問題」にどう取り組むか、ということで、連字符的に規定される分野をどう乗り越えるかという問題意識があるのかもしれない。

一方、教員ではない立場から見ると、院生の絶対数が減っていくなかで、ひとりの研究者の卵が、関心にかかわらず、分野を掛け持ちせざるを得ない状況ももしかしたら発生するのかもしれない。自分の看板分野をどう魅せるか、というだけでなく、事務仕事も勘案すると、割と責任や重圧というのは知らず知らずのうちにのしかかっているのではないかなと思ったりする。

 

・人の時間も、人の数も有限であるなかで、どうそれらをやりくりして成果を出すか。

そのように考えた時に、ハラスメント等の事案、また研究室の雰囲気(軽々しく「潰す」とか言わない!)は重要になる。生産性を下げないために何が出来て、何をしない方が良いのか、よく考えて同僚と接する必要がある。

 

・もしかしたら、知らず知らずのうちに自分は「熱狂」しているのかもしれないと感じることもある。(春だからか?)

年中躁状態であることに気づかないまま過ごし、バーンアウトしてしまう場合もあるかもしれない。気をつけたい。

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20160326架空の日記

 

・3月が終わりかけている。何をしたのかあまり思い出せない。
研究会・読書会で読んだ本が3冊あり、2冊についてはレジュメをつくる担当だった。ヘボなので感想を書き直す体力はない。
自分のやろうとしていることを幅広い文脈に位置づけるためには良い読書だったと思う。あとは、研修の報告書をペラ1枚書いた。これは省力で。

 

・中旬に母親が仕事で上京し、スカイツリーに行った。多少は親孝行になってると良いのだけど。
一昨日は学部の時のゼミの同期で集まった。転勤・結婚・転職、そんな話を聞いた。そういう話題を実践していれば、もっと「親孝行」になったのか?と思うと色々思うところがある。
同じく大学に残っている知人と、親が自分のしていることをどう思っているのか話し合ったことはあるか?という話になって、涙が出そうになった。言葉に詰まって、目がうるみかけているのがバレていたと思う。少し濁したあとに、「○○はどうなの?」と咄嗟に話をふった。最悪だ。
あと、その会で印象的だったのは、福利厚生にも色々種類があるのだということ。サラリーマン福利厚生カードゲームが出来ると思った。

学部の指導教員に励まされた。頑張りたい。

 

・そういえば、友人と中山競馬場に行ったのだった。独特な雰囲気だった。行きは武蔵野線船橋法典で降り、そこから長い地下通路を通って馬券売り場へ。通路の壁に優勝馬のポートレイトが埋め込まれていた。帰りは幹線道路沿いの歩道を延々歩きながら、京成の東中山まで向かった。競馬場から出てきた車で少し渋滞していた。大きな杯があったわけではないのにあの様子だから、有馬記念があった時なんかおぞましそうだと思った。
親子連れ、カップル、色々な人がいた。馬を間近で見ることの出来る場所もあるから、少し動物園代わり?にもなっているのかと思った。入場料は200円。スタンドで観戦している時はモニターを眺めていることが多かった。騎手や馬の名前を呼ぶ野次や応援の声がスタンドの後方からよく聞こえた。特に勝負が決する時はそうだった。謎の高揚感に包まれながら、段々と判断が鈍っていく感じがした。
中山自体での開催レースは12レースで、他にも中京と阪神の馬券を買って遊んだ。(それぞれ12レースずつ。)なので、中山の1レースが終わると、阪神や中京の馬券を買いに走る。レースがひっきりなしに行われているので、短時間であたりをつけて賭けるのは相当難しいと思った。テレビで日曜の15時から流れる中継しか見たことがなかったから、こんなにレースが行われているとは思いもしなかった。(少し考えればわかる。)1レース100円賭けても、36レースで3600円。別に全レースで勝負する必要は無いけれど、買い方も難しいなと思った。
馬の状態、調教、どの馬が種馬なのか、どの牧場で生まれたのか、誰が騎手なのか、芝に強いのかダートに強いのか、走る距離は、これまでの戦績や獲得賞金はいくらなのか、とにかく考えるとキリが無い。
その上、馬券の買い方も、最も単純な(そして奥深い)単勝複勝三連単などなど、予想オッズとにらめっこしながら考える(考えるフリをする)。変数が多く、何が規定要因となるかわからない。まあ、これで食っていくのは無理だなと思った(あたりまえだ)。
飲み代一回分儲かったので、東中山から上野へ直行し、泡銭はそのまま消えていった。

 

・最近読んだ漫画をメモ。(自分の作業で読んだ本はメモしないのに…。)
大武政夫『ヒナまつり』2巻~10巻:アンズ関連のエピソードで泣いてしまった。1巻を読んだきり全然追えてなかったのでまとめ読み。

 

真鍋昌平闇金ウシジマくん』33巻~36巻:マンガワンで久しぶりにフリーターくん編を読んだ流れで最近の中編だけ読んだ。世相を反映させるというよりはバイオレンスの極み。

 

夢枕獏谷口ジロー神々の山嶺』1~5巻:相当読み応えがあった。
よくインターネットの海で見る食事シーンのコマは最後のエベレスト登頂の場面だったことがわかった。マロリーや羽生の謎を追うという一本線があるので、思ったよりもミステリー仕立て?だった。
無骨な男の生き様と荒々しい山にガシガシ殴られながら読む。
深町の行動を追体験しながら読むことになるので、自然と羽生に惹かれていく思いがした。

 

ペトス『亜人ちゃんは語りたい』3巻:ひかりや京子、表紙の佐藤先生かわいい。若干テイストとして説教くさい感じが垣間見えて少し萎えるというのが正直なところ。学園ドラマってそんな感じなのか。

 

緑のルーペ『青春のアフター』1~2巻:これはまとめ読みするタイプの漫画。続刊で半年待つの辛い…はやく続き読みたい。
神々の山嶺』でも日記演出があったけど、これにも日記演出があった。ある種の諦め、倒錯、絶望の中で書く日記だからこそ(他人に読まれることよりも自分のためだからこそ)、思いの強さがにじみ出る。何も書かれていない空白の期間も、ヒロインが直視することになるある場面と重ねあわせれば相当の意味を帯びることになる。だけども、主人公にとっては今更「後始末」をすることになり苦しむことになる。SF的な装置に翻弄されつつも、翻弄されるからこそ、人間の身勝手さがより際立ち、ぶつかり合う作品になるのではないかという気がする。はやく梅子再登場して欲しい。
どうでもいいけど、さくらの声が釘宮理恵で脳内再生された。ぼくは美少女ゲームなるもの、成人向け漫画なるもの、深夜アニメなるものになんとなく馴染んできた青春も含めて清算というか落とし前をつけなければならない気がした。しないし出来ないけど。

 

サンカクヘッド『干物妹うまるちゃん』8巻:心の底からの笑顔やふいんきにやられて自然に涙が出てくる。あとヒカリちゃんかわいい。

 

谷川ニコ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』6巻~9巻:うっちーが相当かわいい。これでうっちーがもこっちに思慕するようになって病んだらどうしよう(無い)。

 

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