荒れ小屋

ごめんなさい

20170819架空の日記

・なんだかんだで半月ほど実家にいた。その間に荒屋の掃除、片付けを多少進め、また自分の作業を進めた(これはほんの少し)。

 

現在、この家には母親ひとりが暮らしている。定期的に帰省し、簡単な掃除をするようにしている。
彼女は今はまだ身の回りのことを自分でやっているが、いつ何があるかわからない。まだ心配するような歳でもないとは思うが……母ひとり子ひとりなため、心労をかけることも余計に、お互いに多いだろう。心苦しい。

 

セルフネグレクトやゴミ屋敷の問題には割と関心がある。また、最近の空き家問題、負動産問題も……。いらない何も捨ててしまおう、という気分になるが、そこはグっとこらえて、何を受け継ぎ何を残すかをよく考えておかないといけない。しかし、熟考するほどの余裕はほとんど残されていない。整理をする時間、マンパワー、お金。誰が出すのか。どの程度出すのか。我が家は自分と母の責任となると思う。この二人で粛々とやっていくしかない。

 

・掃除をしたと書いたが、現実はなかなか厳しく、実質一回ごみ処理センターにゴミを搬送したきりで、あとは出るに任せて倉庫に溜めている。そういう状況である。

 

祖父と叔母の遺品、父親の遺品をまだ片付けられていないまま、ぼくの私物、母親の私物がたまっていく。また、店をしていたこともあり、その資材がまだ残っている。

 

遺品でとにかく場所を取るのはタンスや棚の類である。今いる部屋にはタンスが5つある。この半月ほど家にいて、母親もぼくも一度もタンスを開けていない。母親は衣服の類を吊るしたり、また洗濯場の棚に置いたりしている。着なくなった服について倉庫のダンボールに押し込んでいた。

 

大事にしていたと思われるもの等、最低限のものは残して、捨てられるものは捨ててしまいたいというのが本音である。フリーマーケットやネットオークションに出しても誰も買わないだろう。リユースする余裕も無いだろう。昔の服なら縫製もしっかりしていて、捨てるには忍びないかもしれない。しかし……だ。

 

また、押入れを開けてみたら使われていない布団が鎮座していた。客人用なのかもしれないが……干した形跡もまったく無い。そのような布団を使ってもらう気分にはとてもならない。(そもそももうこの家に客人は来ないだろう。)

 

ちなみに店舗スペース(兼生活スペース)では少し前まで猫が数頭ほど飼われており、荒れ果てている(もう猫はいない)。これはぼくも母親も手をつけられず、放置している。途方に暮れている。虫が湧いていないだけマシかもしれない……。

 

とにかく少しずつやるしかない……。呆れ、頭にきているのが正直なところだが、怒っても仕方ないのだろう。老いのひとつのあり方を直視せねばならないのだろう。ただ、こうやって書き留めることで少しでも気分を晴らそうと思っていたのだが、逆に沈鬱な気持ちになり、怒りが逆流しそうになってきた。

 

・その他、気になる点を書き出す。
:二階部分の床の軋み、脱衣場の床の軋み
:外壁の汚れ
:外周の雑草など
:配電(換えてもつかない電球)

リフォームをするにはいくらお金がかかるのだろう。

 

・小学校の頃に書いた作文や連絡帳、自由帳等をパラパラと読み返していて、なんともいえないアホさ加減に虚しくなる。あと、とにかく字が汚い。育ちの悪さがにじみ出ている。今から見ると「ちゃんとやれ」と言いたいところだけど、今言っても仕方ないのだ。

 

諸々を整理しながら、良いことでも悪いこともで何かやらかしてしまった時に、何かの形で書いたものが暴露されてしまうかもしれない、という自意識過剰な恐怖を覚えた。

 

・今後の予定について。うまくいくかどうかは全く不透明だ。

報告1:9月頃。ぼちぼち取りまとめに入る。1日でががっとやる。
報告2:11月頃。まだ手付かず。報告1が終わってから10月末にかけて作業をする。

 

論文1:前述の9月の学会報告用の原稿とパワポをまずは仕上げる。去年の報告の議論を発展させる。来年はじめには脱稿したい。
論文2:去年の報告をリライトする。9月から10月にかけて作業をする。(9月の学会終了後)報告2の作業と併行……。
論文3:今年の報告をリライトする。11月から12月にかけて作業をする。(11月の学会終了後)
論文4:まだ史料の分析が終わっていない。データも集め終わっていない。9月のどこかで調査に行きたい。3月頃提出。一番時間がかかる気がする。論文1と追い込みとかぶりそう……。

※現実的なのは3と4だけ

 

翻訳:自分の分担箇所について、1日1文でも1パラグラフでも進める。相互監視が必要だと思う。

 

合宿1:9月中旬。新ネタの進捗報告をしようと思ったが、上記の取り掛かり中の作業について報告した方が良い気がしてきた。しかしボスとは「このネタでやります」と約束をしてしまった……。
合宿2:10月はじめ。論文2について一回報告をする。

 

教育:9月下旬から。どこまで準備に時間を割くことができるのだろうか……。

 

研究会1:3月末の会の文字起こしを分担してやる。8月の会からは録音をする。書籍化に向けて始動。7月分はメモしか残っていないが、8月の会に間に合うように論点を箇条書き⇒当日配布。あと、webサイトの作成をどうするか。また、3月にお世話になった方々に連絡などを定期的にとり、情報交換を続ける。

研究会2:こちらもwebサイトの作成を検討したい。が、まずは1から。

20170813架空の日記

・いざ日記を書こうとすると何を書こうと思っていたか忘れてしまう。
先日、夢を見ながら少しうなされていたらしい。夢の内容は忘れてしまった。忘れてしまうくらいならたいしたことではないのかもしれないし、それとも巡り巡って、何か抑圧されていたものが後々噴出してしまうのかもしれない。

 

・一昨日、昼過ぎにシャワーを浴びながらとてつもない不安に襲われた。簡単に言えば、作業が終わるのかどうか、という不安、半月後に迫った報告の準備が終わっていない、という不安、就職への不安、実家に帰省したは良いが相変わらず進まない掃除への不安、このままよくわからない不安を抱え続けるのか?という不安。他にも色々ある。
風呂場の明かりが、電球を交換しても点かないようで、昼間とはいえ薄暗いなかシャワーを浴びた。給湯器は古いのか、お湯の温度の調整がうまくいかず、水で薄めるものの、大量の湯水を使うことになった。


比較的ぬるくなった湯を浴びながら、不安だからこそそこに人が連帯する手掛かりがあるのではないかとぼんやり考えた。いや、不安を抱えた人々は連帯することもあれば何も出来ずに孤立することもある。また連帯のあり方も一様ではない。不安を抱えた者の連帯の特殊さが、一般的に想定されている連帯とどう違うのか、というのは一つ考えどころなのかもしれない。そもそも「連帯」という言葉は……と辞書的用法や、諸学における用法を調べることはしない。SCでも共助でも互助でもなんでも良いと思う。(「不安」とは……ということも考えず、とりあえず括弧に入れておく。)


とはいえ、例えば困窮している者同士が支え合っても共倒れするだけだろう。概して自分や他人に対して配慮をする余裕が無さそうな……。いや、余裕が無い中で振り絞る配慮には価値があるのか?そんな配慮よりかは、5000兆円でどうにかした方がよっぽどマシな気はするが。


ただ、不安を経由した者にしかわからないことというのは何かありそうだという気はしていて、しかも大概の人はその不安を経験している。不安の共振が起こる瞬間というのがどこか、いつかにありそうな気がしている。もしかしたらその不安の共振はただの集団ヒステリーで、最初湯を浴びていた時に思っていたようなポジティブな結果にはならないかもしれない……。


ただ、例えばケアに従事する人などが、不安の構造を理解しているか、していないか、ということは気になるところである。もちろん勉強してきた「不安」を当てはめるとするならば、それは逆に事態を硬化させることもあるだろう。(わかった気にならないでよ、というやつ。)


一方「現場感覚」を大事にしてその場の「不安」をすくい上げるにしても、その場しのぎになりそうな感じがする(前者よりかはマシかもしれないが。)

 

その場でしか、その人のなかでしか起こり得ないことなのかもしれないが、その場しのぎに終わらない普遍的な含意に至らなければ、より広い連帯は可能とならない、そんな気もした。

 

・今日が13日。1日10ページでも抜書きをつくり、1日数段落でも訳し…をあと5日続けていきたい。本も読むばかりでなく、どこを使うかを考えながら、どう動向を整理するかを考えながら作業を続けたい。

20170731架空の日記

・ここ半年何をやっていたのかあまり思い出せない。
4月から教えにいく仕事(とはいえ常勤ではない)を始め、合間に自分の作業を進めたり、ゼミに出たり…という感じだ。2017年はじめに立てた予定や目標は案の定ひとつも達成できていない。

 

:1月~3月 研究会やら打ち合わせやら、論文の書き直しやらでつらい週と、帰省や旅行で何もない週との落差が大きかった気がする。とはいえ、帰省中には論文の書き直しをしていた。(スケジュール表見ていたら、1月の帰省時に論文①の書き直し、3月の帰省で論文②の書き直しをしていた。)
:4月:年度はじめの書類や要旨等をさばきつつ、研究会やゼミに出つつ……。論文の書き直しなどもした。月末に調査兼学会報告。輪読の資料づくりと学会報告の準備が重なった時が若干つらかった。
:5月:ゴールデンウィークを反動で怠惰に過ごす。講義(教えに行く方)と研究会、ゼミをルーティン的にこなしていく。今年度になってから電車移動が増え、心を無にしながら電車に乗る日がそれなりにあった。大ターミナルの人波、帰宅ラッシュ……。電車内で本を読んだり、何かをする気になれず。
:6月:論文の校正をする。刊行を心待ちにしながら、下旬の学会報告の準備をする。
:7月:6月下旬に引き続き、初旬に学会報告。あまりじっくり詰めず生煮えで報告することが多い気がする。思わぬ指摘やコメント、質問をいただけるのがありがたく、改稿の際の参考にもなるし、また自分の作業を見つめ直す機会にもなる。別の史料調査をはじめ、文書館(?)に数日おきに通う。自分にはこういう調査は無理だなと悟った。いかんせん集中できない。一日中没頭することが無理だった。相変わらず研究会や講義、ゼミでの報告を(なんとなく)こなしていく。講義の成績付に時間が取られてしまう。この点は来期以降どうにか改善していきたい。カリキュラムの都合上、毎週の課題、出席等の締め付けが厳しい。出席点付けず、期末にレポートor試験で一発の方が遥かに楽だと思うのだが、時代はもうそれを許さないのかなと思う。(とはいえ科目によるだろう。)講義準備や成績付を加味して時給換算したらいくらになるのだろうか。あまり考えないようにしよう。

 

・最終的な展望がないまま、作業を騙し騙しやっている感が拭えない。
本当に必要となる技術を磨くことを怠っているのが正直なところで、早晩破綻しそうだ。もう姿勢や心構えを見直す気力さえなくなってきた。

 

・夜中寝付けず、働きながらでも他分野を学べる学部(具体的に言えば、大学の工学部の二部コース)を調べたりしていた。現実逃避も良いところだけど、理数科目から逃げて生きてきたこと、それによって最終的には自分の可能性や視野を狭めてきたこと、また現在自分が関わっている作業においては上記の専門分野の知識なり技術なりが理解できていないと本質的な問題の解決にはならないのでは…ということ、これらに若干悩まされている感じがある。

 

・最近太り気味なのでどうにかしたい。古い鍋を捨てて以降、鍋を買わずに電子レンジで炊事をしていたが、つい一ヶ月か二ヶ月ほど前に電子レンジがお亡くなりになった。それ以降もっぱらコンビニや弁当屋、外食で済ませている。
食事制限をする。サラダチキン、こんにゃく麺、納豆、豆腐、バナナ、ヨーグルト……。(コンビニ食をやめた方が良いのでは。)余分なカロリーをできるだけ摂取しない。ジュース、チョコレート、揚げ物、飲み会のつまみにサヨナラを。リバウンドが怖い。
運動は多分続かない。最低限、近距離で電車を使わないとかか……暑い時期寒い時期に続くのだろうか。そもそも運動用の服や靴が無いことに気づいた。

 

・今日見た夢:法事と同窓会が一緒になったような場所で、中学の同級生と話をしていた。同級生の顔が中学生の時のままだった。その場所がいつの間にかバスに変わり、弔事が読み上げられるなかでバスは崖に落ちていった。ここで起床。

20170107架空の日記

・新年の目標を立てたい。
自分の仕事の充実は言うまでもないけれど、もう少し娯楽とか息抜きを充実させたい。映画を見たり、ドラマを見たり、ゲームをしたり。旅行にも行きたい。あと、語学を頑張りたい。それから、絵を描きたい。同人誌を出したい。かわいい本を作りたい。絵は描けない。
2018年になる頃には何一つ達成出来ていない気がする。そうだとしても、なんとなく残された時間がもう少なくなってきている、そういう予感がある。特に大病をしているわけではないが(こう書くと死亡フラグかもしれない)、夢想をしていないと不安になる。
何かを残したい、何かを残したい、青山に土地を買いたい、「俺はやるぜ」「何を」「何かを」。
まずは日常の自分の生活を充実させることが大事なのかもしれない。健康な暮らし。でも、日常の自分の生活を充実させることだけが大事だとは思えない。自分のエゴの塊をどうやったら後の世に残せるか、みたいなことを考えてしまう。悪しき権力者はだいたい変な像をつくる。

・生活のなかにいるから、実際の生活臭に嫌気がさしてしまう。この前見た某映画がテレビのニュースだったかワイドショーだったかで「苦難のなかでも生活を大事にしている描写が評価されている」のように紹介されていて、かなり吐きそうになった。僕は生活が嫌いだ。生活を許さない。でもごちうさは好き。(ごちうさは生活ではないのだろう。)

 

・『薄花少女』4巻を読んだ。モノクロの筆致で生活、くらしを細やかに描いている。繊細なタッチで積み上げられた世界には幻想が滑り込み、また張り付いている。
梅酒を飲み前後不覚となる鳩子(ハッカばあや)がもし幼女ではなかったら、自分はその人を始末に負えない存在とみなして険しい顔をしただろう。(この「もし…」の話は、幼女ではない、という否定的な規定をするに留めたい。仮に幼女ではなく、老いた人、と言ってしまい、ある種の(疑似的な)対立を述べてしまったなら、それは配慮の欠いた一線を越えた表現となってしまう気がする。)
さらに、史の母親がすでに亡くなっているにも関わらず、酔いのためか、そのことを鳩子が忘れてしまっていた場面について、僕はグロテスクだと思った。この点については、認知症の記憶障害を連想してしまったというのが正直なところである。(前記したことを覆すようであるが、これは「老人」と「認知症」を結びつけた連想であり、この点は非常にナイーブな連想である。)確かに記憶の混濁は酔いによってもたらされたものであるものの…。

ここまで書いていて、相当程度自分自身が「老い」に対して好ましからざる感情を抱いていることが炙り出されているし、そのことに向き合いながら読まなければならない。単純に「ロリババア最高~」と手放しで言える作品ではない。
二人の生活の描写が、仮に史による鳩子の介護生活の描写であったら、僕はそれに「尊さ」を見出すことが出来ただろうか?
もし、今この作品で見ている彼らの生活が、実は独身男性と祖母の二人暮らしであり、そこにある種の幻想のフィルターがかかって読者に提示されているのだとしたら?
実際の生活においても、性差、年の差関係無く、困難はあっても、支え合える関係があればそれが「尊い」のかもしれない。この仮定が間違っているかもしれないという点は置いといて、もしそうだとするなら、僕はその尊さを受け容れられるまでには至っていない。

 

・これまでmixiFacebook、別のブログで書いた日記をひとつにまとめたい。まとめたところで…という感じだが、もし自分に何かあった時に、それだけ見てもらえれば、という配慮。(しかしそのまま載せるわけにはいかないと思う。もどかしい。)

20161121架空の日記

・しばらく日記を書く余裕がなかった。8月下旬からの予定を簡単に振り返ろうと思う。と言っても、ここに書いてることはすべて空想です。

 

:8月下旬:二泊三日の調査に出かけた。某大ヒット映画を見た。
:9月初旬:地域研究関係(ざっくり)の学会を覗きに行く。来年は報告したい。それから帰省し、実家の片付けに明け暮れる。途中、関西の知人とごはんを食べたり。
:9月中旬:研究会で外部から人を呼ぶということで、懇親会のセッティングや会計に悩まされる。それからゼミの合宿に行く。
:9月下旬:研究会や読書会をこなしつつ、学会報告の準備を進める。
:10月初旬:学会報告のために西の方へ。特に観光もせず、トンボ帰りで知人の結婚式に出席する。またゼミ合宿パート2にも行く。とにかく出費の多い2ヶ月だった。
:10月中旬~下旬:学部生のためのゼミを開くので、その授業準備をやりつつ、Proceedingを突貫工事で書く。また11月〆の論文×2本の執筆準備。10月末の学会報告の準備。個人的には割と忙しいスケジュールだった。他の人はもっと忙しいので、忙しいと言って良いのかわからないが。(まあ忙しさ自慢をしても仕方がない。)
:11月初旬~中旬:論文を投稿。リジェクトされるかもしれないと思うと恐怖で、先日は掲載不可の通知をボスから直々に渡される夢まで見た。それから、11月中旬の学会(というか海外の大学との交流会)の準備。先のProceedingがあるとは言え、スライドを作ったりしなきゃいけなかった。あまりプレゼンの練習も出来ないまま本番を迎え、質疑応答で失敗してしまった。

 

合間合間に研究会もありつつ…とは言え一日中何も出来なくて寝てるだけの日があったり、家事をこなしてたら半日以上潰れたりの日があったので、ずっと仕事していたわけでもない。勤め人と比べたら遥かに楽な日々なのだろう……。また、自然科学系の知人から研究室こもりきりとか研究室に泊まったとかそういう話を聞くので、不甲斐ない感じがする。(と同時に自分にはどんなスキルが身についているのか?手先が器用なわけでもない、実験器具の管理等の研究室マネジメントの能力があるわけでもない、語学も凡(凡以下)、プログラミングだって縁遠い。)まあとにかく、周りの雑音とか気にせず、鈍感であるべきところは鈍感で、自分にとって必要なことだけ考えたい。自分との闘い……。

 

・ブログには感想を残していなかった気がするが、だいぶ前に劇場版遊戯王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONSズートピアを見に行ったのだった。あと最近見たやつだとキュアモフルンの出て来るやつ(ある種、敵役の愛情の押し付けがましさとか、俺だけを愛して欲しいという欲望や欲求(例えばハピネスチャージでも出てきたはずのモチーフ?)を見てつらい気持ちになった。まるで自分のみにくい姿を見ているようで。)、このせか(絵描きの人が見に行くと結構な喪失感を味わうことになりそうな。自分は生活の描写云々を語るよりも喪失感の方が大きかった。また空襲のノイローゼ感とか…)。
特にこの日記で感想を書くわけではないが、なんとなく今年は映画館に行くことが多かったなと回想する(11本)。と言っても、アニメ映画を見るために映画館に足を運んでいるという状況なので、もう少し幅を広げた方が良いのかな、という気分にもなるし、一方で別に無理に見る必要ない、自分の見たいものだけ見れば良いじゃん!というエゴな気分にもなる。聲もきんモザもまだ見ていないなあ。アイカツスターズはいつの間にか終っていた。漫画も読みっぱなしで、気が向いたら感想を書きたい。

 

・実際にフィールドに出る調査をするとして、その場で見たものをどう描写するのか、皆どのように描写しているのかが最近気になっている。理念型?色々方法はあると思うが、とにかく自分の見たい現象や状況などにある概念や術語を用いて、調査対象としての輪郭を与えていく作業は難しいと思う。某人は、事実をして語らしめるという態度こそ避けて通るべきだと考えていたらしい。自分の認識や価値を絶えず問い直す過程が不可欠だと思う。

20160821架空の日記

・この歳になるまで歳相応に経験すべきことをあまり体験してこなかったことに対する負い目が拭えない。割り切って生活すればいいとも思うけれど、もやもやしたまま過ごしている。書くこともないとそんなことばかり考えている。
 次の世代に何かを残すことを試みても、伝えられることは拙い修学の経験くらいしかない。もちろんそれを伸ばして活かす道もある。「何もしてこなかった自分」の意識が邪魔をする。自尊心が欠如している。(拙い経験でも、嘘をついて誇張やハッタリをかませば、引っかかってしまう人も世の中にはいるのかもしれない。自分のお世話になった小学校の先生をひとりの成人として見つめなおした時、今の自分は何を思うだろうか。)
 伝えることばかり意識しても、そもそも何かを後続の人に伝えることが即良いことなのかどうか、わからない。とりあえず何か、自分の「仕事」を半永久的に残しておいて、自分の見知らぬ誰かが後世その意を汲みとってくれれば良い。そういう傲慢さに支えられてかろうじて自分は生きているのかもしれない。(職能的なノウハウの引き継ぎとか、そういうことはよくわからない。)

 

・自室の床に資料を積んでいるのがあまりに不格好だったから、とりあえずカラーボックス(二段)を三つ購入した。普段使わない利き腕の筋肉が張っているのがわかる。プラスドライバーで棚板のネジを締める作業で首から肩にかけても痛めてしまった。
 昔に授業でもらった資料や、読みそうもない(だけど重要な)新書はスキャンする頃合いに来ていると思う。

 

・会う人会う人に「太った?」と言われることが増えた。食べる量が増えた。運動もしない。典型的な肥満に突き進んでいる。ダイエット日記始めたいと思う(始めない)。
 歯も少し悪くなってきた。自己メンテナンスをしないと乗り切れないのがつらい。最近、やっと風呂あがりの化粧水を使い始めた。心が擦り切れるばかりだと思う。

 

・特に進捗があるわけではない。毎日ほんの少し資料の要約を進めている。作業量が明らかに不足している。もう辞める頃合いかもしれない。

 

・テレ東で『秒速5センチメートル』を流し見た。散々語られてきたであろう作品でありながら視聴したのははじめてだった。例に漏れず自分も何か思ったこと感じたことを書き残しておきたいと思う。
 空の描き方は綺麗なんだろうな、これが綺麗とされている空なのかなと思った。空の延長に果てしない宇宙があることを改めて気付かされた。空をまじまじと見ることもなく、空というのが独立した空間であるようなお粗末な認識で日々を過ごしているから。
 一方、2話「コスモナウト」の海や波の描き方というのは、よくわからなかった。どこに違和感を覚えたのか自分では説明することが出来ない。綺麗か綺麗じゃないかというと、勢いはあっても、あまり綺麗な波や海ではなかった気がする。無理矢理にこじつけるなら、花苗の内面には適しているのかもしれない。思春期は色々悩ましい。
 1話について、1995年当時はやはり時刻表で旅程を確認したり、手紙でのやりとりを続けていたりする。随分アナログな小道具が配置されているから、物理的な距離の遠さを必然的に誰しも感じざるを得ないし、やきもきしてしまうポイントだと思う。とにかく手間がかかる。
 そういうわかりやすい距離や遠さとは対照的に、2話の遠さはどうしようもなく他人にはわかりにくい距離感を主人公は抱えている気がした。誰に送るでもないメールを携帯(PHS?)で打つ。主人公が理想に思う初恋の相手は、果たして別の地で今生活しているその人と同じなのかどうか。的外れかもしれないけれど、思い出になっていくその体験が崇拝される偶像に段々となっていく。そんな感じがした。(主人公がやっている弓道はその一方で努力すれば的に当たるし、距離も測ることが出来る。ロケットとかそれに付随する良い場面とかメタファーとかはよくわからない、特に考えてないので省略したい。)
 わかりやすいフック故に距離にひきつけて適当に言ってしまうのはよくないのかもしれない。二人の間の距離のわかりにくさとか遠さは当人達にしかわからないのではないか、いや当人達もどう語るべきなのか、思い出にする、時間に任せる、流れ行く生活に任せる以外の選択肢を持っていないのかもしれない、とか、そういうことを思った。
 話は変わるけれど、1話の最後でヒロインが言う「大丈夫だから」は何が大丈夫なのか?その「大丈夫」にどのような意味を込めたのか?この時点で自分はヒロインのことが何も理解出来なかった。遠くに行っても主人公はうまくやっていける、ヒロインという存在がいなくてもなんとかやっていける、凡庸な「大丈夫」の含意のひとつふたつしか思い浮かばなくて、きちんとそこは手紙渡しておけよ…という気分にもなってしまう。(また見直す機会があればちゃんと考えたい。)
 あと、「遠さ」と「近さ」(駅で再会してから)の両極端さに触れることで、互いの距離感が掴めなくなるというのはあるのかもしれない。しばらく離れていたのに、あまりにも急速に二人が近づくことで「自分が自分ではなくなるような感覚」に襲われたとして、その感覚に責任を持てるのか、自己を保存出来るのか、自己を保存出来なくなる恐怖みたいなものが彼らにはなかったのかどうか気になった。
 

20160811架空の日記

・昨年の9月に祖父が亡くなった。先日、法要があり、母の実家まで向った。母と叔母の折り合いが悪い。勘弁して欲しい。認知症の祖母は相変わらずであった。自分の母親の介護の段階になったら、自分はどうなるのか、何をしてしまうのか。今心配しても仕方がないことだが。
 父親は今思い返すとモラルハラスメントの常習的な加害者だったように思う。それは今この時点で言葉を与えるとするならそうだ、ということであり、単に癇癪持ちで粗暴な性格であっただけなのかもしれない。
 戦前生まれの彼は僕が上京してすぐに亡くなってしまった。そのことについて、自分は喜ばなかったと言えば嘘になるだろう。

 何度も何度も亡父との諍いを夢に見る。苦しめられているのか。

 

・何を「正常」、「合理的」とみなすかは置いておいて、仮に正常で合理的な判断をすることの出来ない成人に囲まれて生活していると大概の子どもが感じたとしても、「家庭」という集団・組織の存続においては「非合理的」な挙動の方が「合理的」という場合がおそらく多いのではないか。有り体に言えば、組織存続においては合理的な性格を持つ肉体的・精神的暴力を行使することが出来る成人。

 

・巷で言われる「毒親」ほどはひどくは無いように思う。すべての家庭には暴力がつきまとう。だからよくある一例であるとも思える。
 そろそろ「毒親」について、卒業論文程度のものが出てくる頃合いかなと思う。AC問題とどう重なりあうのか、等個人的に知りたいことは多い。

 

・「ディストラクション・ベイビーズ」を見に行った。暴力の連鎖によって彩られた作品だと思った。簡単に思ったことを残したい。
 まず、怪物的な暴力、暴力が生の一部となっている主人公に触発された少年が繰り出す暴力はあまりにも惨めであった。要は自分よりも力では劣る「女性」を殴りたいと思うような暴力の惨めさである。その少年は、普段つるんでいるグループの中ではビビリな「陰キャラ」のように思われる。おそらく権威に弱く、後ろ盾を求め続ける性格であろう。この点が、ある意味では滑稽さを醸し出しており、惨めに思われた所以である。
 少年がSNSを用いる描写についてはあまり好みではなかったが、突発的な暴力から逃げる者を記録する場面には惹かれた。その記録には暴力を楽しもうとする少年の声も記録されている。「女を殴りたい」という発言然り、鑑賞する者の衝動を刺激するような描写に思えた。
 個人的にその少年はあまりに「凡庸」であると感じた。彼は、怪物と共に過ごすことで徐々に主人公に畏怖の念を抱くようになり、また主人公から承認・認識されないことに苛立ちを覚えるようになる。
 少年は暴力に「意味」や「価値」を見出していた。しかし、主人公にとって暴力は価値を持つものではない。というのも主人公は息をするように人を殴り、食事をするように人を殴る。ひたすら暴力を遠巻きに映す場面によって、暴力がそこにあるという認識が呼び起こされるが、それ以上の作用は無い。
 最終的に主人公は故郷に再び上陸する。その場面の静かな戦慄が、喧嘩神輿の喧騒と対比される。無意味な暴力が何らかの意味を持つのだとしたら、まがい物の暴力(通り魔少年や喧嘩神輿)が破壊される時においてであろう。(ここで見出される意味や価値も、実のところ天災みたいなもの、としか言いようがないのかもしれない。)
 もうひとりの主人公である万引き女について。とにかく利己的で底意地が悪い造形がされていた。
 どういう意図や構造を持つ作品なのか述べることが難しい。おしまい。

 

・また、某怪獣映画も見に行った。やはり破壊によってもたらされる気持ちよさがある。いかに破壊されるかを楽しんで見た。

 

・暴力の経験を語ることは難しい。語ろうとすると心が乱れる。整理して語るにはそれなりの技量がいるように思える。何かを読み、学ぶことに仮に意義があるのだとしたら、言葉にすることが難しい経験について言葉を尽くすこと、言葉を尽くすことでもやもやした気持ちを沈めることにあるのだと思う。それはともすれば診療的な意義になってしまう。何か、政策としてこうしたら良いのではないですか、という提言をすることにはならない。「非合理的」な心の動きに対して、図式にあてはめる形ではなく、光を当てるにはどうしたら良いか。言葉を紡ぐことで救われる何かに目を向けたいと自分は考えているのか、と思ってしまった。それは「解釈」という方法ともまた違う。「解釈」と言ってしまったら雲散霧消してしまう何かもまたあるような気がしている。