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荒れ小屋

ごめんなさい

20160226架空の日記

・2月の一週間ほどは、副専攻の研修の準備と研修本番で潰れてしまった。

加えて、研修から帰ってから2日ほどやる気が出ず。ここ一年で気づいたのは、長距離の移動に自分が耐えられないということだった。別のところでも呟いたが、新幹線から降りるとしばしば頭痛がする。

研修自体は自分にとってするべきこと、出来そうなこと、絵に描いた餅がいくつか発見出来たように思う。

研修に同行した他のメンバーとはあまり会話が出来なかった。体調不良でコンパに参加出来なかったこと、どうしても他人と壁をつくってしまうありふれたあぶれ者の性格といろいろあるけれど、一番キツかったのは「会話があわない」ということ。

自分の教養弱者ぶり(特に音楽の経験)をこれほど痛感したのは久しぶりだったかもしれない。貧困の経験/経験の貧困でまたもや苦しむことになるとは……。

 

・最近見た映画について。

『オデッセイ』:科学の力はすごい。3Dメガネの装着に慣れなかった。

別の所で呟いたが、化学や情報工学、物理学者には、堆肥で芋を育てることが出来るのだろうか?植物学が真の学問・科学かどうかという問題に対してコメントは出来ないが、相当程度に「役に立つ」ことは「実証」出来ているのではないか、と思った。

 

『劇場版selector』:最初のルミとサチとのやり取りとか、エピローグ部分だけでも個人的には元をとった気でいる。実は、二期でまだ見ていない回もあり、少しついていけるか不安だった(し、やっぱりどこが新規なのか判然としないところも実際あった)。エピソードをルミ・ウリスに焦点を当てて再構成している。ちょっと憎悪むき出しにしすぎなセリフ回しにうまく乗れない感覚もあり(勢いで押し切るような)、若干つらいところもあった。それは、総集編自体の(切っても切れない)ブツ切り感を頭の中で処理しきれないままにパワーワードをぶつけられるから、余計に混乱してしまうせいなのかな、と思った。

この作品は、いわゆるまともそうな「大人」を意図的かそうでないかはわからないけれど画面から排除している気もした。というか、今これを書いている時にあまりルミの親?の顔もイオナ(ウリス)に「気持ち悪い」と言って走り去ったおじさんの顔も思い出せない……。るう子のおばあちゃんもちょっと出てきたくらい。るう子も家族関係には難有り(母親との関係)だし、登場人物の背景が割と重い。

 

『同級生』:爽やかなシチュエーションでねっとりとしたキスを見せつけられる美しい連作集。このようなジャンルの作品、比べるのは良いかわからないが、たまに純情ロマンチカ(3期)を見ていたこともあり(?関係あるかはわからないが)、設定自体に感じる違和感は無かった。

ただ、男一人でこの作品を見るのは、(周りの観客がほとんど女性だったという意味で)なんとなく居心地が悪かった。スクリーンに映し出される男性と、今ここで鑑賞している僕は同じ性なのかと考えるともやもやとして、申し訳無い気持ちになった。

なぜこんなにスタイルが良いの…肌白いの…首筋…etc

鑑賞後に「DVD鑑賞会して、シーンごとに一時停止して実況したい」と他の観客の方が言い合う程の力を持つ作品。

 

『KING OF PRISM』:思わせぶりなエンディング……。ぜひ続編をお願いしたい。

スピンオフ作品としてこういう展開をして、なおかつ評判になるのは、そもそも4クール分の因縁という土台や骨組みがあったからこそ(もっと言えば第一作から3年分)なのかという気がする。

応援上映の影響かどうかはわからないが、一般上映でも終始笑い声が漏れ聞こえたり、上映終了後に拍手が起きたり、普通の映画鑑賞とは違った経験になったかもしれない。

ある程度場の空気がつくりだされているところがあり、許容されたのかな。

なんというか、面白かったし、それぞれのプリズムショーに力を感じる。だけど、これもパターン化していくと飽きられちゃうのかな?とも思ったりする。

 

・月末は研究会・読書会が連続しているので、少しつらい。研究会で人に会っておぼつかないながらもレジュメを切ったり議論したりしないと干からびてしまうが、一方で一ヶ月研究会の準備も何もせずに、自分の作業だけに取り組みたいという気持ちもある。さじ加減が難しい。

最近作業をしていて思ったのは、やはり訳書を読む時は訳者のクセに気をつけないといけないということ。

例えば、Aという人の著作が5つあって、それぞれ別の人が翻訳しているとする。すると、5人以上の訳者の語の選定や文体といった要素に戸惑いながら、Aの書いていることを考えることになる。もちろん、ブックガイドとして訳書を使い、考えを知ることは重要で、それぞれの訳者の仕事には敬意を払わねばならない。だけど、Aという人の言っていることから何か論を導こうと思ったら、いわゆる原書を読んで、A vs 自分という形でモノを考えなければ意味が無い。そんな当たり前?のことを改めて感じた次第。

口を酸っぱくして、人が原書主義を唱えるのは、結局その方が遠回りに見えて効率が良いからなのかな、とも思う。もっとも自分は語学が出来ないので、一日に出来る作業が本当に雀の涙……。

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20160202架空の日記

・久しぶりに萌え絵の模写でもしようと思ったが、十分も続かなかった。

ちょっと前までやっていたことがだんだんと出来なくなることがかなしい。

何をするにしてもやらない時間があいてしまえば最初からやり直しになる。

 

・1月の不甲斐なさを取り戻そうと、2月は頑張ろうと思ったが、早速つまづいてしまった。頼んだ本が届き、少しめくっただけで諦めてしまった。

「本当にこれやりたいの?」と聞かれることが何度かあり、そういう時に自分の弱さを見透かされている(挙動や仕草にも出ている)のだなあと思う。

これまで自分からやると言い出して放り出した仕事を思い浮かべかなしくなる。小さな仕事でも、数え切れない人たちに迷惑をかけたのだろう。

 

・d/ア/ニ/メ/ス/ト/アに登録した。もう、作業をしたくないならいっそ何もせずに好きなことだけして、身を滅ぼせば良いのではないか。

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20160130架空の日記

・最近つらかったことだけを記す。1月の第一週は論文の書き直しとセミナーの報告で潰れ、それから二週目にかけて新年会等が続く。14日から20日まで帰省だった。
帰省の度に荒れ果てていく実家を見ながら、自分にはどうにも出来ずまたその場をあとにする。せめて家の周りの雑草くらい抜けばよかったと思う。
よく行っていたショッピングセンターが潰れ、新しい複合型ショッピングセンターが出来ていた。中学校近くの道路が拡張していた。取り壊されて新しくなる建物が増える。自分が見た景色が失われていく。
親との話が微妙に噛み合わない。自分と親では記憶が違う。思い出し話題に出す過去のどこに力点を置くかが違う。当たり前だが、親と自分は違う人間だ。

実家をあとにし、母親と母方の祖父母の実家へと向かった。離島で暮らす祖母は歩くこともままならず、静かにベッドで横になっている。私の存在に気づくことはなく、食事の席で私だけが気不味さを感じる。主に世話をする叔母も、母親も、自分の親にやさしくやさしく話しかける。頻繁に彼女たちの存在を老女に確認させようと試みるが、反応はほとんど無い。祖父の遺影の横にある祖父母の写った写真立てには笑顔が浮かんでいた。

島を離れる前日、母親に連れられて島を一周した。うらぶれた港町を横目に、親が過ごした日々の断片を生返事で聞く。残された時間が少ないと感じる。運転免許を持っていない私は、いつまで彼女の助手席に座りながら、脈絡無く放り出されるその人の話を聞くことが出来るのだろうか。

東京行きの新幹線から途中下車をする母親を見送り、日々の仕事に戻る。それからの週は会議や研究会の資料作りに追われた。たいした仕事ではないのに気が滅入る。
そうこうしている内に論文の審査結果が送られてきた。不採択であった。丁寧な査読をされた分、実力の無さが思い知らされてつらい。この一年は何だったのか。
これから何の業績も残せない日々が続くのだとしたら?それも年単位で。あまり考えたくない。

 

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20160111架空の日記

・年明けの5日が修正原稿の〆切で、年末年始ゆっくり出来なかった。

一日中作業をしていたわけではないけれど、圧迫感や焦り、不安ばかりで、

何もせずに休んでいる時もあまり休んだ気にはならなかった。

 そんな中でもSHIROBAKOの一挙放送も割とちゃんと見てしまったので反省したい。〆切直前までずっと作業をして推敲する時間が取れない癖をどうにかしたい。正直アニメ見てる方が楽しい……。
 5日から6日に日付が変わる直前にぎりぎりで郵便局へ駆け込み、なんとか提出は出来たものの、おそらく掲載には至らないと思う。

 7日には研究室全体の構想発表セミナーがあり、その準備をしなければならなかったので、6日は急いで構想を練る。
 7日の報告当日でもらったコメントは、やはり各章のつながりが他人にわかりにくいということ、方法の曖昧さ(古典的な区分であれば、インターナルな解釈のアプローチなのか、エクスターナルな解釈なのか)、どういう視点や概念で各章を展開していくのか等、全体を統括する視点が足りないということ、そしてどのような人物像を新しく提示出来るのか、そもそも筆者自身が抱いている像がどのようなものかわからないということ、資料の全体設定等だった。

 翌日の面談では、もう一度基本文献を読みなおした方が良いと言われた。そもそも本を読む力が無いことが改めて露呈した。本は読んでも読まれるな。
 8日にレポートの提出、11日にもレポートの提出があり、ようやく一段落ついた。9、10、12日と新年会も挟みつつ、13日に研究会。14日から20日頃まで帰省の予定。24日はまた研究会……。
 新年度になればまた学会報告の予稿を考えなければならない。去年は結局国内は二件だったので、今年のパターンは6月頃に二回+10月頃に二回の計四回か、どこか一回分減らして三回程度か。そもそもあまりネタが無い……。
 教員も仕事の同僚達もみな忙しなく働いている。自分は正直つらい。最近は学部生の希望にあふれた発言を見聞きするのが本当につらい。

 

・「新しさ」を考える時に、「新しい」ことと「重要である」ことと「議論が開かれたものになる」ことの三つの間をイコールで結ぶことは難しいと思う。開かれた議論になるには、新しさと重要さが担保できればある程度可能な気はするが。
 「新しさ」を喧伝する割に含みが少ない、という事態を考えてみる。そもそも、どうしても自分は新しい技法も考えにも馴染めない。それなら、アナログな視角でも含みが多く言える対象や素材を見つけ出す方が良い、というか生存戦略なのではないかという気がする。
 もちろん新しい技法技法で発展していくために含みや意義を考えずに発展させることは重要であると思う。でもそれは多分自分の仕事ではない。
まあ、「新しい」ことと「重要である」ことの等閑視を出来るだけ避けていたら、なぜかカビの生えたようなテーマをやることになり、加えてカビの生えたテーマはおそらく「新しい」こと以上に重要さや意義をエクスキューズすることが難しいというどうしようもない事態に陥ってしまった自分が何を言ったところで仕方がないのだけど。おまけに、何ら政策的な含みを持たない、公共における規範を考える手立てにもならないような仕事に、どのような意味があるのか……。でも、古くなったことは重要でない、議論も実りがないとそう簡単に言えるのか?
 つらすぎる。こうして人は潰れていく。もしくは、こういう疑問に直面することがすぐに分かるからこそ、考えなくても良いことを考えるハメになることが予測出来るからこそ、潰れないようにみんな方針を立てるのだろうなと思う。そういう賢しらさに徹底的に反抗する気力は、加齢と共に消えていく。いや、今の仕事場に入る前は、業界の見取り図が本当に何もわからなかったのだ。

 

・10日は『傷物語』と『ガラスの花と壊す世界』を鑑賞した。どちらの作品も、出演する声優の数、というか登場人物が少ない作品だったように思われる。時間も1時間と少し。その時間で話を展開するのなら、数人でも十分なのか。
 『傷物語』は、湾岸の工場地帯の背景を丁寧に描いていたり、工場萌えや廃墟萌えの人にとっては良いのではないかと思った。それらを撮影するカメラの動きも凝っていたように思う。(どう凝っているかはわからない。)落下シーンや爆発炎上シーンは映画っぽいなと思う。キスショット(縮小してからの)の描き方は、なんというか筋金入りの好き者がいるのかなと思わせてくれる。
 『ガラスの花~』は、第一印象としては、女の子のかわいさを全面に出し、それを邪魔しない程度のストーリー…という感じであった。なんというか、閉鎖された世界で、ペアの二人主人公がいて、それに突然もうひとり謎の正体不明の人物が転がりこんできて、ペア二人の関係(もうひとりも含めた)やそれぞれの心境も変わっていき、しかしながら最後にはもうひとりは去っていく…というのは、ある意味単線的というか、話に起伏があるのかと言われればよくわからない。(リモは、えとたまのウリたんのように消える役目を果たした。)
 ベタではあるが、ふつうの人類の世界でキャッキャしていると思いきや、実はバックアップされた世界であったのだ、という暴露型の仕掛けがあるわけでもなかった(最初からデータの世界で話が進むので)ので、そういう点でも盛り上がりに欠けたような気がする。好みの問題ではある。そういう暴露型の展開では見る側にストレスになるだろうし、三人の関係を見せづらくなるという判断があるのかもしれない。

 

・結局去年は劇ラもここさけも見に行かなかったので、今年はアニメ映画は積極的に見に行きたい。
 最近(ざっくり)は地方に住んでいてもインターネットを使えばアニメを見ることが容易になったと思う。一方で劇場版が増えるということは、映画インフラの地域間の差によっては、ふたたび歯痒い思いをする「地方民」があらわれる、ということなのだろうか。(余談、検証もクソもない話だが、やはり自分もアニメ視聴機会格差の解消を求めて上京したフシがある。)

 

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20151218架空の日記

・この個人商店は、実入りが少ない割に、手弁当になることが多い。その持ち出しには色々な水準がある。

今日は、積みに積んだ、仕事で使う紙の山(要はコピーするだけして読まないままの論文や、ゼミで使った文献コピー、レジュメ)を多少整理した。

これまで、ぺらぺらのクリアファイルにとりあえず突っ込んで放置していたものがいくらかあった。お世辞にも、研究遂行能力があるとは思えない。整理整頓なら、小学生の方がよっぽどしっかりしているのではないだろうか。自分は小学生の頃からダメだった。

さて、コピーをする際にはお金がかかる。多少はコピーカードの無料サービスが使えるが、そうではない場合、自費になる。

図書館にコピーしに行くのが面倒な時、複写を頼むことがある。これは余計にお金がかかる。文献が共有される場合は、共同で使っている仕事部屋のプリンターで印刷をする。みんなが競うように機械を酷使するので、よく壊れる。

とりあえず、1日に2本論文をコピーすると考えて、20pの論文を2つ、200円ってところか。

200円の30日で6000円、その1年で72000円はかかる。

 

この本の部分コピーや論文、とりあえず管理しておく必要がある。

本の半分以内の分量であれば(配慮)、A4横向きの厚紙ファイルに綴る。これは生協で売っている、一番安いやつだ。

5枚入っていて、351円。

ゼミや研究会の個人報告や文献報告も、各会毎にまとめてファイリングをする。

 

bungu.univcoop.or.jp

 

ある程度、テーマ別に個別の論文をファイルする時には、60枚か40枚のポケット付きのやつを使う。60枚なら550円。

http://www.kingjim.co.jp/archives/news/0911/01.html

 

上で、一ヶ月に60本の論文をコピーすることになっているが(実態はともかく)

これなら30日でファイルがいっぱいになってしまう。二つのファイル代を考えると、年間で1万程度はかかるだろう。

 

そんなこんなで、年間10万円程度はコピー代と文具代で最低飛んでいくのではないか…。以前書いたエントリーで、学会報告のレジュメ印刷にはお金がかかると書いた覚えがあるが、それも含めるといくらになるだろう。

家計簿を厳密につけていないのでわからない。

 

あと、ファイル保管場所としての棚も仕入れる必要がある…。難儀だ。

 

ガールズ&パンツァーの劇場版を見に、立川まで行ってきた。いわゆる爆音上映である。上映館であるシネマシティだが、立川駅北口を真っ直ぐ進んだところにあるシネマワンではなかった。最初勘違いをしたまま向っていて焦ってしまった。左折するとモノレールの線路が見えるが、モノレール沿いの建物のひとつがシネマトゥーで、そこで公開している。

シネマトゥーに入り、発券を済ませ、上映前まで少し並ぶ必要があったが、コミケの列を思い出していた。東館と西館をあたふたと往復していた頃の記憶がぼんやりと蘇った。

内容についていくらか妄想(感想)を残しておきたい。

オールスター出演(制服サービスあり)の上で、おそらく本編では描ききれなかった各登場人物の関係の補完を行っている。また、新しいつながり、もともと異質な高校が共にチームを組むなかで培われていく絆も、元からあったつながりを違った角度から映し出す効果をもっている。

個人的には、西住姉妹の回想場面の郷愁が一番心に残ったシーンだった。(この姉妹がわだかまりをほぐしていく様が、後半の対戦の大きな鍵となる。)この郷愁は、単なる回想ではないと思う。学園艦から離れた上での共同生活を再び「陸」で、おそらく馴染みはあるのだが、久しぶりに訪れた土地で行うことになる彼女たちが、まずねぐらにしたのは、文字通りの廃校舎であった。係留するだけの場であった土地に根を下ろすことを余儀なくされ(もちろん、転校が決まれば散り散りになるのだから、その場しのぎには変わりないのだが)、その上で自らが直面する現実を(自分だけでなく家族と)捉え返す必要に迫られる。ここでは登場人物の一部が、それまで学園艦で担っていた役割から解放されたアノミー状態になり、一種の退行を起こす。(桃のような頑張りももちろん見られる。)

既に終わりを迎えた空間で、自省と退行の空気を経由しながら、それぞれはそれぞれが出来ることをいつものように繰り返していく。(自省と退行にそれぞれ等しい意味付けをするのは無理があるかもしれない。)郷愁は用意されたものとしてあらわれる。

まだこの段階では後半の試合の話は出ていなかったように思うが、有り体に言えば、不安定な状況のなかで次に進むために必要な作業が郷愁を発生させる空間で必然的に発生する。生真面目さの塊が必要以上に統率をとり、また逆に融解していく躁鬱状況の中で、次の一歩を見据える作業が(作品内在的にも、登場人物の心情内在的にも)必要になるのではないかと考えた。

ただし、いつも割合冷静な西住みほも、ボコランドでボコられグマを見て、これまでにないテンションを見せている。ボコが好きなこともあるが、そこに回収できない気持ちの昂ぶりもあの場面にはあらわれているように思える。(個人的には、荷物詰めの場面でのまいったな…という感情の出し方が人間っぽくてよかったように思う。)

あのボコランドの場面ではじめて対面したアリスは、ゲストキャラクターの位置づけとしては少しぼんやりしていたように思われる。あの個性際立つ数十名のキャラ造形と比べると、少し物足りないものを感じる。お話の流れとして彼女が負けることはかなしいかな決まっており、どう負けを決めるか、ということに強調点が置かれるのではないかと勘ぐりを入れたくなる。いや、勝敗はある意味どうでも良いのかもしれない。(むろん、作品内で廃校阻止に向けて奔走するのだから、当人たちにとって勝敗は大事なのだが。)

カチューシャやアンチョビ程のキャッチーさはない。敵のキャッチーさで惹くことも十分出来るかもしれないが、どうやら戦車道には人生が詰まっているらしい。この対戦を通してあらわれるオールスター各人の生き様を、それぞれの人間関係と成長に仮託させながら描くことに強調点があるのならば、アリスそのものを骨太に描くことはしなくとも十分であり、成長と勝利への導き手として存在すればある種十分なように感じる。

結局のところ、倒したのはボコランドそのものであるようにも思えるし、そうであるとするならば、そこに込められた思いは、必ず学園艦に還るという気持ちであり、ボコられても立ち上がる不屈の気持ちなのかもしれない。陸という彼女たちにとっての生業の土地ではない場における幽閉・呪縛*1から逃れるために設定された、打ち倒すべきスケープゴートがこの半ば廃墟と化した遊園地そのものだったのではないか。(志を同じくするものに倒されることがアリスの一種の本望であるようにも一瞬思えた。結局、親への言伝でボコランドそのものは復活しているようだが…。「あのままでは潰れてしまう」というアリスのセリフがあったように思うが、潰れてしまうのは一体何か。ボコランドだけなのか、ボコに重ねた自らか。)

 

 

*1:同じ監督の『監獄学園』もボロ校舎、というか劣悪な監獄だったことを思い出した。

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20151211架空の日記

・気づけば12月が3分の1過ぎていた。

11月もおおむね週1でゼミなどの報告があった。同僚達はもっと忙しそうに分析や報告準備をしているが、自分はのんびりしたもので、どうしたものかなあとぼんやりしていたら一ヶ月以上が過ぎた。

 

・10月末に論文を投稿し、先週その査読が返ってきた。ぎりぎりのところでリジェクトされるところだった。忠実に誠実に修正をしても、掲載されることが無いような気がする。1月はじめが期限なので、12月は積読を崩そうと思っていたのだけど、そういうわけにもいかなくなった。

読みにくい文章を書いているという自覚はあるものの、なかなか直らない。

今回提出にあたって数回書き直しをしたが、今回も一から書き直す必要があるだろう。

文のつなげ方、1パラグラフ1テーマ、パラグラフの連関、基本的なことを血肉にするには時間がかかる。

限られた紙幅で、多くの概念を手短に説明することは難しい。言及しなければならない概念を絞るのも大事なことだろうと思う。影響作用や受容においても、複数の古典を一度に提示し、著者を召喚することは、単発の論文では褒められたことではないのだろう。加えて、今回は、アプローチというか作法についても甘いところがあった。

 

・他人に書いたものを読んでもらってナンボの世界なのかもしれない。その一方で、他人の書いたものに対して、何かしらのチェックを行う機会も増えていく。簡単な誤字脱字チェックから、ある種定式化された「意義付けは?」という質問、より内在的な研究の方向性など。他人の研究で妄想してはいけないが、再構成能力が求められる。それも、持ち帰って検討するのではなく、瞬時にそれを示さなければならない。

そういう営みのなかで、やはり出来の良いコメント、核心を突くコメントと、そうではないコメントの違いがぼんやりと浮かび上がってくる。これは非常に場の雰囲気や、ディスカッションの展開の仕方、場のオーナーである教員の反応などで違いを最初は推し量るしかない。もちろん、組み立ての不備を突く能力を参加者の皆が持っているのであれば、自然に議論の方向性は示され、やりとり自体似たり寄ったりのところに収まることもあるから、最初に雰囲気などの材料で判断することが妥当かどうかはわからない。

この浮かび上がってくる「ぼんやり」というのは、丁寧に教材として整理された形で提示されたとしても、察することが出来なければあまり意味がない……。KYを克服するにはどうすれば良いか。KYが新たな視点を切り開くこともあるだろうが、まずは限られた時間の中で求められる議論を積み重ねることが大事だと思う。研究資源は無限ではない。

先日出た別キャンパスのゼミは、研究の紹介の後、そのレジュメの中では出てこなかった事例の話に脱線することが多く、加えて教員もそれに乗っかってコメントをする(「それは今関係ないだろう」とは言わない)ため、あまり有意義だとは感じなかった。研究科ごとのカラーがあるのかもしれない。他人の研究を意識することは、それ自体が非放任的な場であることを示す証左足り得るのかもしれない。

 

色々守るべきルールはあると思うが、

発言の機会、順番、時間への配慮。

議題の配慮。明らかに脱線していないかどうか。場が閉じた後で伝えれば良いのではないか。人名や書名を持ちだして何か語った気になってはいないか。

発言の仕方。参加者を見る。もごもごしない。

メモをとる。わからなかったことは何か。わからなかったことは様々あると思う。背景知識の共有不足なども含めて。その中で取捨選択と順位付けを行い、ロジックの不備などの議論の展開上重要なことに焦点を当て、自らのコメント自体を場の中で構造化する。

先にも言ったが、他にも色々あるだろう。何か一冊まとまったマニュアルを買うべきか。

 

・忘年会シーズンに入った。あまりアルコールに強い方ではない。この前、飲み会後にリポビタンDを服用したら効果があったような気がする。

このような場で仕事以外の話をすると、教養や文化的、趣味的知識の無さを痛感する。

最近では、文化的オムニボアという、何でもつまみ食いする能力それ自体が資本である…というような視角が流行しつつあるらしい。これは他人の話の又聞きだから、信憑性も何も無いし、調べて典拠や文献情報を挙げるだけの気力も無いので、勘弁いただきたい。

 

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20151024架空の日記

・水曜日にゼミで書きかけの原稿を報告した。方方からもらったコメントを思い返しながら改稿を進める。分量は増やせないので、厚く書くべきところの取捨選択をしながら進めていきたい。

一度印刷したものに赤or青ペンでアイデアを書き加えながらの方が、パソコンの画面だけで修正している時よりも多少進みが良い気がする。

 

・最近たまに食事後に腕や脚が痒くなることがある。何かの病気か。

あと、集中がまったくできない。眼も前より悪くなったように思う。

健康診断自体を数年受けていない。

 

・インテレクチュアル・ヒストリーでググってでてきたもののメモ。

ケンブリッジのModern Intellectual History

journals.cambridge.org

New Books in Intellectual History

 

newbooksinintellectualhistory.com

 

 

 

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