荒れ小屋

ごめんなさい

20160808架空の日記

・気がつけば4月以降の更新が無かった。5月6月と毎週のように報告が続き、特に6月末と7月の中旬は学会大会での報告だったので、体感的には慌ただしい日々だったように思う。
 6月末の学会ではフルペーパーに近いものを用意したので、それなりに時間をかけたつもりである。もちろん、まだ読み込みの足りないところや、検討の余地のあるところは多くあるから、それらを改善して論文に近づけられると良いなと思う。7月中旬の学会ははじめての英語での報告だった。以下、気づいたことを書き残しておきたいと思う。

 

・一日目、乗り継ぎ含め十数時間のフライトを終え、現地のホテルに到着したのは23時過ぎだった。最寄り駅とホテルの間は目と鼻の距離だったが、夜で看板が見えなかったこと、はじめての土地にも関わらず地図が手元になかったこと、海外用にフリーSIMを用意してなかったことなどが災いし、20分30分ほど地下鉄駅の近くをうろうろとしていた。比較的治安の良い都市であると聞いていたがそれでもかなりの恐怖だった。キャリーケースを引きながらの移動も苦痛だった。最初からそうすればよかったという話ではあるが、やむなく駅の売店でサンドイッチを買い、そのついでにホテルの場所を聞いた。先にも述べたように文字通り目と鼻の距離で、地下鉄を出て横断歩道を渡ればすぐの場所に位置していた。

 ホテルに着いてからも、自分の客室の番号を間違えたり、カードキーの使い方がわからず右往左往したり散々だった。その日は早々に就寝した。部屋がやたら豪華?であまり落ち着かない。居間部分(一階)と寝室ロフト部分(二階)が分離したタイプの部屋だった。

 

・二日目、自分のiPadiPad用のUSBメモリを用いての作業がなかなかうまくいかず、しびれを切らす。同じ学会に来ている知人(同じ研究室の人)に頼み、ノートパソコンを一瞬使いたいと頼み待ち合わせの約束をする。件の知人の泊まっているホテルに向ったはずが、実は別地区に建っている同じ名称同じ系列のホテルに行ってしまい、知人に結局迎えに来てもらうことになった(○○ホテル1に行くべきが、少し離れた○○ホテル2に行ってしまった)。大変な迷惑をかけてしまった。
 ホテル近くの日本食屋で昼食を取る。寿司も蕎麦も、まあこんなもんか…というもの。その後、学会会場となる大学に向かい、学会のレジストレーションをする。もらった学会パンフレットが分厚かった。コミケのカタログほどではないが。タンブラーが着いてきたものの、無料で水等を汲める場所は無かった。それから、自分の報告する会場を下見に行く。ラウンドテーブルでのセッションになったので、大教室とは違いこじんまりとしていた。
 夕方以降、開会式、懇親会と続く。新しく研究者と知り合いになるわけでもなく、とりあえず同じ研究室の人を見つけてしばし雑談。料理は小さなサンドイッチがメインだった。

 

・三日目、学会は二日目。午前中、歯ブラシと歯磨き粉を忘れてしまったため、ホテル近くのスーパーに買いに行く。昼はそこで購入した寿司と焼き餃子。午後、知り合いに会い、一緒にいくつか報告を見て回る。報告はピンキリだったように思う。
 夜、研究室の教員や知り合いの研究者達と一緒に居酒屋街に出かける。路面電車で20分ほど行ったところにある居酒屋街。飲み食いしていると、やたらとアブかミツバチが飛んでいて落ち着かない。野外のテーブル席での飲食だった。報告前日なのに、それも翌日の報告は午前9時からなのに酒飲んでもいいのかとほんの一瞬躊躇したが、躊躇しただけだった。みんなほろ酔い気分でそれぞれの宿に帰る。

 

・四日目、学会は三日目。午前は自分の報告のセッション。9時からのトップバッターだった。全体で90分の時間、4人の報告者ということで、ひとり15分の報告×4、残り30分の質疑応答という流れを想定していたが、実際はひとり20分ほど報告時間を使ってしまったため、質疑応答は10分ほどだった。
 自分の報告は、パワポのスライドも用意し、また読み上げ原稿も配ったので、最低限の準備はしたと思いたい。やはり発音やプレゼンの仕方には課題が残る。それらについては準備不足だった。
 二番目の報告者は、読み上げ用の自分用メモのみを持参し、最初は英語で話していたものの、途中からスペイン語に切り替わった。僕以外はそれなりに内容を理解しているように見えた。セッションが英仏スペイン語の使用が可能であったとはいえ、少しは配慮してほしいように思った。また、スライドも用意していなかった。三番目の報告者は、スライドのコピーを配ったうえで、英語でプレゼンをしてくれた。四番目の報告者は、フランス語のスライドとプレゼンだった。固有名詞をつなぎながら、内容を想像するしかなかった。
 質疑応答について、自分の報告については四番目のフランス語を用いた報告者が質問をしてくれた。なぜその対象なのか、という話からはじまり、ある程度想定問答として用意していたことを切り貼りしながら答えたつもりではあるが、そもそも相手の質問の趣旨を理解出来たかどうかも心許ない。これもまた次回解決すべき課題だと思う。

 

多少脱線するが、プレゼンの仕方も人それぞれだということに気づいた。
(1)読み上げ原稿を配り、スライドをもとに報告する。
(2)スライドをもとに報告する。
(3)読み上げ原稿もスライドもなく、フリースタイルでただ話すだけ。
特に目についたのは(3)のパターンである。日本での学会ではあまり見かけないパターンではないかと思った。また、スライドを用意していても、大教室で見えづらい、文字が小さい等のデザインの問題も関わってくるように思われた。

この日は大学近くのレストランで夕食。知人が頼んだスープがやたら塩辛かったようだ。

 

・五日目、学会は四日目。研究室の教員とメンザで昼食を取る。色々な部会の報告を聞く。
・六日目、学会は最終日。フェアウェルパーティーで色々な人と知り合う。報告でのやりとりだけでなく、このような食事の場での情報交換も大事そうだがなかなか慣れない。
・七日目、観光日。有名な博物館とケーキ屋に行った。
・八~十一日目、隣国へ移動。現地で在外研究をしている知り合いに案内をしてもらう。帰国。
マクドナルドでの食事が最後の2日続いた。クレジットカードでの支払いが可能だったので甘えてしまった。ホテルの近辺が盛り場で少し治安に不安を覚えた。

 

・こうして書き出してみるとたいしたことは無いが、それなりに疲弊した旅だった。3年前にはじめて海外に行った時と比べれば、この二回目の渡航で少し勝手のわかっていることもあったが、それでもここで1年間過ごしてください、と言われたら困難だろうなと思った。特にオチは無いがこれでおしまい。

20160409架空の日記

・新年度がぬるりと始まった。残務整理がそろそろ片付きそう。

D課程に進学する人は年々減っているらしい。(頭にある伝聞情報なので、根拠もへったくれも無い。)肌感覚では、Mに入学した人達の半分程度、場合によっては3分の1しかDに行かない。そうなると、研究室の事務仕事の配分がやりにくい。ひとりの院生がやらなければならない細々とした事務仕事が、本業以外にある。

例えば…

:ゼミの運営…メーリングリストの管理、懇親会や合宿の手配(Mに任せても良い業務もある)、国外から研究者を招待する場合には講演会の準備(昨年度の場合は講演原稿の下訳を分担してつくり、当日の質問要員にもなった。)

:研究会の幹事…メーリングリストの管理等

:研究室の院生の取りまとめ…色々な要望をまとめる仕事。部屋や蔵書の管理等も。

:学会年次大会の手伝い…これはまだ担当していない。当日の会場の設営、会費の徴収等?学部生から比較的下の年次のDまで幅広く手伝うはず。

:学会雑誌等、各種発行物の編集業務…今年度は雑誌の編集業務を手伝った。割と大変だった。もう少し大きいJournalだとどうなるのか…。

:TA/RA…授業や実習等の手伝い。

助成金関係…提出する書類が定期的に(特に年度末)ある。これは個人の業務。

他にも色々あると思う。D4にもなると、非常勤で教える仕事も降ってくるらしい。

 

・教員としては「複合的な問題」にどう取り組むか、ということで、連字符的に規定される分野をどう乗り越えるかという問題意識があるのかもしれない。

一方、教員ではない立場から見ると、院生の絶対数が減っていくなかで、ひとりの研究者の卵が、関心にかかわらず、分野を掛け持ちせざるを得ない状況ももしかしたら発生するのかもしれない。自分の看板分野をどう魅せるか、というだけでなく、事務仕事も勘案すると、割と責任や重圧というのは知らず知らずのうちにのしかかっているのではないかなと思ったりする。

 

・人の時間も、人の数も有限であるなかで、どうそれらをやりくりして成果を出すか。

そのように考えた時に、ハラスメント等の事案、また研究室の雰囲気(軽々しく「潰す」とか言わない!)は重要になる。生産性を下げないために何が出来て、何をしない方が良いのか、よく考えて同僚と接する必要がある。

 

・もしかしたら、知らず知らずのうちに自分は「熱狂」しているのかもしれないと感じることもある。(春だからか?)

年中躁状態であることに気づかないまま過ごし、バーンアウトしてしまう場合もあるかもしれない。気をつけたい。

20160326架空の日記

 

・3月が終わりかけている。何をしたのかあまり思い出せない。
研究会・読書会で読んだ本が3冊あり、2冊についてはレジュメをつくる担当だった。ヘボなので感想を書き直す体力はない。
自分のやろうとしていることを幅広い文脈に位置づけるためには良い読書だったと思う。あとは、研修の報告書をペラ1枚書いた。これは省力で。

 

・中旬に母親が仕事で上京し、スカイツリーに行った。多少は親孝行になってると良いのだけど。
一昨日は学部の時のゼミの同期で集まった。転勤・結婚・転職、そんな話を聞いた。そういう話題を実践していれば、もっと「親孝行」になったのか?と思うと色々思うところがある。
同じく大学に残っている知人と、親が自分のしていることをどう思っているのか話し合ったことはあるか?という話になって、涙が出そうになった。言葉に詰まって、目がうるみかけているのがバレていたと思う。少し濁したあとに、「○○はどうなの?」と咄嗟に話をふった。最悪だ。
あと、その会で印象的だったのは、福利厚生にも色々種類があるのだということ。サラリーマン福利厚生カードゲームが出来ると思った。

学部の指導教員に励まされた。頑張りたい。

 

・そういえば、友人と中山競馬場に行ったのだった。独特な雰囲気だった。行きは武蔵野線船橋法典で降り、そこから長い地下通路を通って馬券売り場へ。通路の壁に優勝馬のポートレイトが埋め込まれていた。帰りは幹線道路沿いの歩道を延々歩きながら、京成の東中山まで向かった。競馬場から出てきた車で少し渋滞していた。大きな杯があったわけではないのにあの様子だから、有馬記念があった時なんかおぞましそうだと思った。
親子連れ、カップル、色々な人がいた。馬を間近で見ることの出来る場所もあるから、少し動物園代わり?にもなっているのかと思った。入場料は200円。スタンドで観戦している時はモニターを眺めていることが多かった。騎手や馬の名前を呼ぶ野次や応援の声がスタンドの後方からよく聞こえた。特に勝負が決する時はそうだった。謎の高揚感に包まれながら、段々と判断が鈍っていく感じがした。
中山自体での開催レースは12レースで、他にも中京と阪神の馬券を買って遊んだ。(それぞれ12レースずつ。)なので、中山の1レースが終わると、阪神や中京の馬券を買いに走る。レースがひっきりなしに行われているので、短時間であたりをつけて賭けるのは相当難しいと思った。テレビで日曜の15時から流れる中継しか見たことがなかったから、こんなにレースが行われているとは思いもしなかった。(少し考えればわかる。)1レース100円賭けても、36レースで3600円。別に全レースで勝負する必要は無いけれど、買い方も難しいなと思った。
馬の状態、調教、どの馬が種馬なのか、どの牧場で生まれたのか、誰が騎手なのか、芝に強いのかダートに強いのか、走る距離は、これまでの戦績や獲得賞金はいくらなのか、とにかく考えるとキリが無い。
その上、馬券の買い方も、最も単純な(そして奥深い)単勝複勝三連単などなど、予想オッズとにらめっこしながら考える(考えるフリをする)。変数が多く、何が規定要因となるかわからない。まあ、これで食っていくのは無理だなと思った(あたりまえだ)。
飲み代一回分儲かったので、東中山から上野へ直行し、泡銭はそのまま消えていった。

 

・最近読んだ漫画をメモ。(自分の作業で読んだ本はメモしないのに…。)
大武政夫『ヒナまつり』2巻~10巻:アンズ関連のエピソードで泣いてしまった。1巻を読んだきり全然追えてなかったのでまとめ読み。

 

真鍋昌平闇金ウシジマくん』33巻~36巻:マンガワンで久しぶりにフリーターくん編を読んだ流れで最近の中編だけ読んだ。世相を反映させるというよりはバイオレンスの極み。

 

夢枕獏谷口ジロー神々の山嶺』1~5巻:相当読み応えがあった。
よくインターネットの海で見る食事シーンのコマは最後のエベレスト登頂の場面だったことがわかった。マロリーや羽生の謎を追うという一本線があるので、思ったよりもミステリー仕立て?だった。
無骨な男の生き様と荒々しい山にガシガシ殴られながら読む。
深町の行動を追体験しながら読むことになるので、自然と羽生に惹かれていく思いがした。

 

ペトス『亜人ちゃんは語りたい』3巻:ひかりや京子、表紙の佐藤先生かわいい。若干テイストとして説教くさい感じが垣間見えて少し萎えるというのが正直なところ。学園ドラマってそんな感じなのか。

 

緑のルーペ『青春のアフター』1~2巻:これはまとめ読みするタイプの漫画。続刊で半年待つの辛い…はやく続き読みたい。
神々の山嶺』でも日記演出があったけど、これにも日記演出があった。ある種の諦め、倒錯、絶望の中で書く日記だからこそ(他人に読まれることよりも自分のためだからこそ)、思いの強さがにじみ出る。何も書かれていない空白の期間も、ヒロインが直視することになるある場面と重ねあわせれば相当の意味を帯びることになる。だけども、主人公にとっては今更「後始末」をすることになり苦しむことになる。SF的な装置に翻弄されつつも、翻弄されるからこそ、人間の身勝手さがより際立ち、ぶつかり合う作品になるのではないかという気がする。はやく梅子再登場して欲しい。
どうでもいいけど、さくらの声が釘宮理恵で脳内再生された。ぼくは美少女ゲームなるもの、成人向け漫画なるもの、深夜アニメなるものになんとなく馴染んできた青春も含めて清算というか落とし前をつけなければならない気がした。しないし出来ないけど。

 

サンカクヘッド『干物妹うまるちゃん』8巻:心の底からの笑顔やふいんきにやられて自然に涙が出てくる。あとヒカリちゃんかわいい。

 

谷川ニコ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』6巻~9巻:うっちーが相当かわいい。これでうっちーがもこっちに思慕するようになって病んだらどうしよう(無い)。

 

20160226架空の日記

・2月の一週間ほどは、副専攻の研修の準備と研修本番で潰れてしまった。

加えて、研修から帰ってから2日ほどやる気が出ず。ここ一年で気づいたのは、長距離の移動に自分が耐えられないということだった。別のところでも呟いたが、新幹線から降りるとしばしば頭痛がする。

研修自体は自分にとってするべきこと、出来そうなこと、絵に描いた餅がいくつか発見出来たように思う。

研修に同行した他のメンバーとはあまり会話が出来なかった。体調不良でコンパに参加出来なかったこと、どうしても他人と壁をつくってしまうありふれたあぶれ者の性格といろいろあるけれど、一番キツかったのは「会話があわない」ということ。

自分の教養弱者ぶり(特に音楽の経験)をこれほど痛感したのは久しぶりだったかもしれない。貧困の経験/経験の貧困でまたもや苦しむことになるとは……。

 

・最近見た映画について。

『オデッセイ』:科学の力はすごい。3Dメガネの装着に慣れなかった。

別の所で呟いたが、化学や情報工学、物理学者には、堆肥で芋を育てることが出来るのだろうか?植物学が真の学問・科学かどうかという問題に対してコメントは出来ないが、相当程度に「役に立つ」ことは「実証」出来ているのではないか、と思った。

 

『劇場版selector』:最初のルミとサチとのやり取りとか、エピローグ部分だけでも個人的には元をとった気でいる。実は、二期でまだ見ていない回もあり、少しついていけるか不安だった(し、やっぱりどこが新規なのか判然としないところも実際あった)。エピソードをルミ・ウリスに焦点を当てて再構成している。ちょっと憎悪むき出しにしすぎなセリフ回しにうまく乗れない感覚もあり(勢いで押し切るような)、若干つらいところもあった。それは、総集編自体の(切っても切れない)ブツ切り感を頭の中で処理しきれないままにパワーワードをぶつけられるから、余計に混乱してしまうせいなのかな、と思った。

この作品は、いわゆるまともそうな「大人」を意図的かそうでないかはわからないけれど画面から排除している気もした。というか、今これを書いている時にあまりルミの親?の顔もイオナ(ウリス)に「気持ち悪い」と言って走り去ったおじさんの顔も思い出せない……。るう子のおばあちゃんもちょっと出てきたくらい。るう子も家族関係には難有り(母親との関係)だし、登場人物の背景が割と重い。

 

『同級生』:爽やかなシチュエーションでねっとりとしたキスを見せつけられる美しい連作集。このようなジャンルの作品、比べるのは良いかわからないが、たまに純情ロマンチカ(3期)を見ていたこともあり(?関係あるかはわからないが)、設定自体に感じる違和感は無かった。

ただ、男一人でこの作品を見るのは、(周りの観客がほとんど女性だったという意味で)なんとなく居心地が悪かった。スクリーンに映し出される男性と、今ここで鑑賞している僕は同じ性なのかと考えるともやもやとして、申し訳無い気持ちになった。

なぜこんなにスタイルが良いの…肌白いの…首筋…etc

鑑賞後に「DVD鑑賞会して、シーンごとに一時停止して実況したい」と他の観客の方が言い合う程の力を持つ作品。

 

『KING OF PRISM』:思わせぶりなエンディング……。ぜひ続編をお願いしたい。

スピンオフ作品としてこういう展開をして、なおかつ評判になるのは、そもそも4クール分の因縁という土台や骨組みがあったからこそ(もっと言えば第一作から3年分)なのかという気がする。

応援上映の影響かどうかはわからないが、一般上映でも終始笑い声が漏れ聞こえたり、上映終了後に拍手が起きたり、普通の映画鑑賞とは違った経験になったかもしれない。

ある程度場の空気がつくりだされているところがあり、許容されたのかな。

なんというか、面白かったし、それぞれのプリズムショーに力を感じる。だけど、これもパターン化していくと飽きられちゃうのかな?とも思ったりする。

 

・月末は研究会・読書会が連続しているので、少しつらい。研究会で人に会っておぼつかないながらもレジュメを切ったり議論したりしないと干からびてしまうが、一方で一ヶ月研究会の準備も何もせずに、自分の作業だけに取り組みたいという気持ちもある。さじ加減が難しい。

最近作業をしていて思ったのは、やはり訳書を読む時は訳者のクセに気をつけないといけないということ。

例えば、Aという人の著作が5つあって、それぞれ別の人が翻訳しているとする。すると、5人以上の訳者の語の選定や文体といった要素に戸惑いながら、Aの書いていることを考えることになる。もちろん、ブックガイドとして訳書を使い、考えを知ることは重要で、それぞれの訳者の仕事には敬意を払わねばならない。だけど、Aという人の言っていることから何か論を導こうと思ったら、いわゆる原書を読んで、A vs 自分という形でモノを考えなければ意味が無い。そんな当たり前?のことを改めて感じた次第。

口を酸っぱくして、人が原書主義を唱えるのは、結局その方が遠回りに見えて効率が良いからなのかな、とも思う。もっとも自分は語学が出来ないので、一日に出来る作業が本当に雀の涙……。

20160202架空の日記

・久しぶりに萌え絵の模写でもしようと思ったが、十分も続かなかった。

ちょっと前までやっていたことがだんだんと出来なくなることがかなしい。

何をするにしてもやらない時間があいてしまえば最初からやり直しになる。

 

・1月の不甲斐なさを取り戻そうと、2月は頑張ろうと思ったが、早速つまづいてしまった。頼んだ本が届き、少しめくっただけで諦めてしまった。

「本当にこれやりたいの?」と聞かれることが何度かあり、そういう時に自分の弱さを見透かされている(挙動や仕草にも出ている)のだなあと思う。

これまで自分からやると言い出して放り出した仕事を思い浮かべかなしくなる。小さな仕事でも、数え切れない人たちに迷惑をかけたのだろう。

 

・d/ア/ニ/メ/ス/ト/アに登録した。もう、作業をしたくないならいっそ何もせずに好きなことだけして、身を滅ぼせば良いのではないか。

20160130架空の日記

・最近つらかったことだけを記す。1月の第一週は論文の書き直しとセミナーの報告で潰れ、それから二週目にかけて新年会等が続く。14日から20日まで帰省だった。
帰省の度に荒れ果てていく実家を見ながら、自分にはどうにも出来ずまたその場をあとにする。せめて家の周りの雑草くらい抜けばよかったと思う。
よく行っていたショッピングセンターが潰れ、新しい複合型ショッピングセンターが出来ていた。中学校近くの道路が拡張していた。取り壊されて新しくなる建物が増える。自分が見た景色が失われていく。
親との話が微妙に噛み合わない。自分と親では記憶が違う。思い出し話題に出す過去のどこに力点を置くかが違う。当たり前だが、親と自分は違う人間だ。

実家をあとにし、母親と母方の祖父母の実家へと向かった。離島で暮らす祖母は歩くこともままならず、静かにベッドで横になっている。私の存在に気づくことはなく、食事の席で私だけが気不味さを感じる。主に世話をする叔母も、母親も、自分の親にやさしくやさしく話しかける。頻繁に彼女たちの存在を老女に確認させようと試みるが、反応はほとんど無い。祖父の遺影の横にある祖父母の写った写真立てには笑顔が浮かんでいた。

島を離れる前日、母親に連れられて島を一周した。うらぶれた港町を横目に、親が過ごした日々の断片を生返事で聞く。残された時間が少ないと感じる。運転免許を持っていない私は、いつまで彼女の助手席に座りながら、脈絡無く放り出されるその人の話を聞くことが出来るのだろうか。

新幹線から途中下車をする母親を見送り、日々の仕事に戻る。それからの週は会議や研究会の資料作りに追われた。たいした仕事ではないのに気が滅入る。
そうこうしている内に論文の審査結果が送られてきた。不採択であった。丁寧な査読をされた分、実力の無さが思い知らされてつらい。この一年は何だったのか。
これから何の業績も残せない日々が続くのだとしたら?それも年単位で。あまり考えたくない。

 

20160111架空の日記

・年明けの5日が修正原稿の〆切で、年末年始ゆっくり出来なかった。

一日中作業をしていたわけではないけれど、圧迫感や焦り、不安ばかりで、

何もせずに休んでいる時もあまり休んだ気にはならなかった。

 そんな中でもSHIROBAKOの一挙放送も割とちゃんと見てしまったので反省したい。〆切直前までずっと作業をして推敲する時間が取れない癖をどうにかしたい。正直アニメ見てる方が楽しい……。
 5日から6日に日付が変わる直前にぎりぎりで郵便局へ駆け込み、なんとか提出は出来たものの、おそらく掲載には至らないと思う。

 7日には研究室全体の構想発表セミナーがあり、その準備をしなければならなかったので、6日は急いで構想を練る。
 7日の報告当日でもらったコメントは、やはり各章のつながりが他人にわかりにくいということ、方法の曖昧さ(古典的な区分であれば、インターナルな解釈のアプローチなのか、エクスターナルな解釈なのか)、どういう視点や概念で各章を展開していくのか等、全体を統括する視点が足りないということ、そしてどのような人物像を新しく提示出来るのか、そもそも筆者自身が抱いている像がどのようなものかわからないということ、資料の全体設定等だった。

 翌日の面談では、もう一度基本文献を読みなおした方が良いと言われた。そもそも本を読む力が無いことが改めて露呈した。本は読んでも読まれるな。
 8日にレポートの提出、11日にもレポートの提出があり、ようやく一段落ついた。9、10、12日と新年会も挟みつつ、13日に研究会。14日から20日頃まで帰省の予定。24日はまた研究会……。
 新年度になればまた学会報告の予稿を考えなければならない。去年は結局国内は二件だったので、今年のパターンは6月頃に二回+10月頃に二回の計四回か、どこか一回分減らして三回程度か。そもそもあまりネタが無い……。
 教員も仕事の同僚達もみな忙しなく働いている。自分は正直つらい。最近は学部生の希望にあふれた発言を見聞きするのが本当につらい。

 

・「新しさ」を考える時に、「新しい」ことと「重要である」ことと「議論が開かれたものになる」ことの三つの間をイコールで結ぶことは難しいと思う。開かれた議論になるには、新しさと重要さが担保できればある程度可能な気はするが。
 「新しさ」を喧伝する割に含みが少ない、という事態を考えてみる。そもそも、どうしても自分は新しい技法も考えにも馴染めない。それなら、アナログな視角でも含みが多く言える対象や素材を見つけ出す方が良い、というか生存戦略なのではないかという気がする。
 もちろん新しい技法技法で発展していくために含みや意義を考えずに発展させることは重要であると思う。でもそれは多分自分の仕事ではない。
まあ、「新しい」ことと「重要である」ことの等閑視を出来るだけ避けていたら、なぜかカビの生えたようなテーマをやることになり、加えてカビの生えたテーマはおそらく「新しい」こと以上に重要さや意義をエクスキューズすることが難しいというどうしようもない事態に陥ってしまった自分が何を言ったところで仕方がないのだけど。おまけに、何ら政策的な含みを持たない、公共における規範を考える手立てにもならないような仕事に、どのような意味があるのか……。でも、古くなったことは重要でない、議論も実りがないとそう簡単に言えるのか?
 つらすぎる。こうして人は潰れていく。もしくは、こういう疑問に直面することがすぐに分かるからこそ、考えなくても良いことを考えるハメになることが予測出来るからこそ、潰れないようにみんな方針を立てるのだろうなと思う。そういう賢しらさに徹底的に反抗する気力は、加齢と共に消えていく。いや、今の仕事場に入る前は、業界の見取り図が本当に何もわからなかったのだ。

 

・10日は『傷物語』と『ガラスの花と壊す世界』を鑑賞した。どちらの作品も、出演する声優の数、というか登場人物が少ない作品だったように思われる。時間も1時間と少し。その時間で話を展開するのなら、数人でも十分なのか。
 『傷物語』は、湾岸の工場地帯の背景を丁寧に描いていたり、工場萌えや廃墟萌えの人にとっては良いのではないかと思った。それらを撮影するカメラの動きも凝っていたように思う。(どう凝っているかはわからない。)落下シーンや爆発炎上シーンは映画っぽいなと思う。キスショット(縮小してからの)の描き方は、なんというか筋金入りの好き者がいるのかなと思わせてくれる。
 『ガラスの花~』は、第一印象としては、女の子のかわいさを全面に出し、それを邪魔しない程度のストーリー…という感じであった。なんというか、閉鎖された世界で、ペアの二人主人公がいて、それに突然もうひとり謎の正体不明の人物が転がりこんできて、ペア二人の関係(もうひとりも含めた)やそれぞれの心境も変わっていき、しかしながら最後にはもうひとりは去っていく…というのは、ある意味単線的というか、話に起伏があるのかと言われればよくわからない。(リモは、えとたまのウリたんのように消える役目を果たした。)
 ベタではあるが、ふつうの人類の世界でキャッキャしていると思いきや、実はバックアップされた世界であったのだ、という暴露型の仕掛けがあるわけでもなかった(最初からデータの世界で話が進むので)ので、そういう点でも盛り上がりに欠けたような気がする。好みの問題ではある。そういう暴露型の展開では見る側にストレスになるだろうし、三人の関係を見せづらくなるという判断があるのかもしれない。

 

・結局去年は劇ラもここさけも見に行かなかったので、今年はアニメ映画は積極的に見に行きたい。
 最近(ざっくり)は地方に住んでいてもインターネットを使えばアニメを見ることが容易になったと思う。一方で劇場版が増えるということは、映画インフラの地域間の差によっては、ふたたび歯痒い思いをする「地方民」があらわれる、ということなのだろうか。(余談、検証もクソもない話だが、やはり自分もアニメ視聴機会格差の解消を求めて上京したフシがある。)