荒れ小屋

ごめんなさい

20130924架空の日記

体調がすぐれない。具体的には、鼻の蓄膿が始まった。これがやってくるとだいたい風邪のひきはじめだ。


 親と金の話をメールでする。こちらに来てから、金の話しかしていない。文頭に申し訳程度の時間と、気候と、近況報告を添えて、金の無心をする。身の振り方を決められず、臆病が悪化する。多分本心ではない未練が残る。どうしても残ってしまった怨念を育てるほどの金銭的余裕はない。

 

 個人的な恨みをつらつら書いているブログがたくさんあって(訂正、たくさんあるはず…)、そのなかのひとつふたつをたまにつまみ読みしたりする。個人的な怨念が、世代論と共振をした時に、その怨念に対する共感がぐっと増える。同時に反発も増える。世代のせいにするな、世代の特徴であっても、お前が見てきたものすべては世代の一部にしかすぎない、などなど。異世代の自分が、異世代のある個人の恨みに惹かれるのは、おそらくその個人が持つ屈折そのものの力のせいであり、他方、記述のなかにちりばめられた固有名詞が、自分の異世代に関するにわか知識をくすぐるからだろう。その世代の思春期、青年期の苦しみを実際のところ知らなくとも、「苦しんでいた」という情報はよく見聞してきているのだから。ここで、世代の問題というより、「若者」の問題のように捉えているのはあまりよくないかもしれない。細かな定義云々の話ではなく、自分の経験してきた年月が未だ、感覚的に(なんとなく、の範囲で)「若者」の保有する年月なのだと、自分が信じているから。

 

 恨みがチャーミングなのはなぜだろう。恨みという感情と経験と知識の総体的蓄積は、彼、彼女個人のすべてを表している。自分はおそらく、恨みを感情のひとつの領域とは思っていない。とてもとても、時間をかけて練り上げられた歴史的なものだと思う。素朴に言えば、同じように生きている人間たちと分かり合える要素が、この恨みであり、恨みの持つ歴史性であり、恨みから垣間見える人間っぽさなのだろうというのが、今のところの自分の思いである。喜びはすぐに消えてしまう。いや、消えてしまった。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【日記】【文献メモ】恨みが魅力的であるということ」 なお最後の数行と文献表は削除した。)