荒れ小屋

ごめんなさい

20130926架空の日記

 こちらに来れば、あんなに海外に行きたがっていた人達の気持ちも少しはわかるかと思っていた。そんなことはなかった。なんとなく、ベッドの上で今食べたいものを想像してみた。チャーハン(王将でも、コンビニでも、冷凍食品でも)、うどん(はなまるうどんでも、学食でも)、焼き鳥…。むなしい。弱い人間だ。物心ついた頃から幾度も海外に行く金銭的余裕、精神的余裕があり、それが習慣として身につき、情報や経験などが豊富に蓄積されてきた人々が喧伝する「良さ」や考え方に巻き込まれないと、日常生活での雑談に汲々としてしまい、つらい思いをする。つらい思いをしてきた。分相応とはなんだろうか。


 自分が何をしたところで、「そんな僕らを無視して『生きていこう』とおっしゃってる」ということなのだろうという気もする。人の目を気にして怯え、人に合わせようとする振る舞いが空回りする一面と、自虐的にへりくだりつつも彼らの振る舞いをバカにしている一面、この両面の狭間でずっと苦しむことからの出口が見えない。もしかしたら、出口はすぐそばにあるのにも関わらず、非常口を探してうろついているのかもしれない。そんな奇妙な徘徊に手を差し伸べることもなく、彼らは「遠慮」をしない。正規の入口と出口をよくわきまえている。ただ、遠慮をされたところで、こちらの利になることはまったくないだろう。声をあげて、繊細チンピラになることだって出来るかもしれないが、どうにもならない。

 

 関係性のなかでどうにもならないことを悟ったときには、自分にまつわるすべての現象に関して、出自や階層にその原因をすべて求めてしまうかもしれない。誰が「悪い」という話ではないのに、報われなさや救われなさを「悪」にくっつけて考えるから余計つらくなるのだろうか。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【日記】【文献メモ】出口の見えない徘徊 なお、文献表とURLを削除した。)