荒れ小屋

ごめんなさい

20130927架空の日記

キャラ萌えありき(というよりほぼ外見)でガッチャマンクラウズを見た。うつつちゃん、はじめちゃん共にキュートだ。女装っ子くんもそれなりに。
 
 はじめちゃんの性格(なのか言動なのか)は、作中のネット上で彼女に対する悪意が可視化されていたように、確かに見る者にとってはなんらかの反発を生むようなものなのだろう。まっすぐで、素直で、恐らく人々の反応をだいぶわきまえた上で、それでもあのまっすぐさを維持し続けている。作中で決して普段見せている性格が豹変して、力を発揮するような場面はなかったように思われる。(キレる…というべきか。)あのある種の博愛主義が、籠の中のさみしい鳥たちだったガッチャマンの面々を変えていく。積極性、自己肯定、決断、責任、官僚主義からの脱却などなど。チームを変えていくだけでなく、SNSを通して立川市の命運を握るお偉方の面々をも結びつけ、連帯を築きあげていったことで、物語終盤の市街戦は彼らの活躍がより際立つようになっていったと思われる。みんなが「ヒーロー」なのだろう。(余談だが、立川市が首都機能のバックアップ機能を果たしていることをこの作品で私ははじめて知った。)

 

 彼女の性格を見て思い出したのは、当作品のシリーズ構成を務める大野敏哉氏が2011年に手がけたスイートプリキュアのハミィというキャラクターである。ハミィもまた、はじめと同様に能天気なようでありながら、どことなくすべてを見透かしているような感じを与えさせるキャラ造形だったように記憶している。はじめがパイマンに対し「どうしたい」と聞いた場面は、スイートプリキュアでハミィがエレンに「どうしたい」と聞いた場面を思い起こさせた。大切なものを守る資格があるか苦悩しているときに、「どうしたい」と背中を押すことは、すべてを見透かしているゆえの(というより行動して何か変わる方がマシだということをよく知っているゆえの)優しさでもあるが、これは少々残酷な言葉でもあるように感じる。これは自分の場合だが、自分がそういう場面になったときに「どうしたい」と聞かれてどうすることができようか、何もできない。おそらく、「どうしたい」という言葉がかけられる時点で既に「何をすべきか」ということは声をかけられる側はわかっているし「何ができるか」ということもコミュニケーションする双方において了解の事項なのだろうとも感じる。だから、ここで「残酷な言葉」と言ったのは、資格が無い者に対してこの言葉がかけられた時に残酷なのだろうということであって、そもそも資格が無い者には声はかけられないのだから、この残酷さは永久に浮上してこないだろう。

 

 「何をする」「何ができる」と考えながら動いているのは、ひと握りの人々ではないだろうか。

 

 「みんながヒーローであるべきなんだ」というのが、ネットワーク型の相互扶助の理想主義の極地としてるいの口から語られたように思われる。梅田は、旧来型の前衛指導的な革命観でもって、るいと相反するが、(騙されていたとはいえ)彼が実際に行動を起こしたあとで彼の言うことを聞く者はいなくなった。なら、るいの理想主義的な立場の方がマシかといえばそういうわけでもない。

 

 ギャラックスしかり、ガッチャマンのメディア戦略しかり、この作品で描かれる人々の衆愚的な技術乱用の場面(過剰なカリカチュアライズか現実と生き写しか)というのは、この理想主義が本当に乗り越えなければならないだろうと思われる敵を表しているのだろう。立ち向かうべき敵(敵という強い言葉で言い表していいのかどうかわからないが)の存在は多分、ベルク・カッツェが人々のどうしようもない悪意を利用して彼ら自身の手で滅ぼしあいをするよう仕向ける一連の流れが、どことなく例証しているように思われる。

 

 ここで、人々はFacebookの「イイネ」に似たボタンを押すだけであったり、励ましや罵倒のコメントをコメント欄に放り込むだけだったりすることもある。しかし、人々の想像力というか、何気ない意識、行動が、徐々に積もって世界を「変革」していく。それは毒にもなれば薬にもなる。技術の使い方次第というのは身も蓋も無い話で、そういう読みしか結局自分はできなかったのだ。

 

「みながヒーローになる」かどうかという問題は、裏返せば「みなが愚かに滅ぼし合う」可能性を大いに秘めている、という感想である。(はて、自分はこんな話をしたかったのだろうか…。)

 

 もう一点、悪意の増幅機関として描かれやすいSNSの書き込みを「嫌ならスマホの電源を切れば良い」というはじめの態度、これは自己防衛になってもあまり解決策にはならないだろうとなんとなく感じる。作品序盤から示されてるように、はじめの流されなさを表しているエピソードだと思う。(どちらかというとスガネの方がギャラックスなどに流されやすいのでは…という印象すら持つ。)もちろん、悪意の遮断というだけでなく、そもそもそのような機具や電波の存在がなければギャラックスを通した助け合いなど無効ではないかということだと思うし、だからこそ(あえて呼称するなら)立川の草の根の人々の結びつきを信じていたということなのだろう。

 

 だいぶ話が変わるが、市井の生活を描きつつ、具体的な市や地名(はたらく魔王さまの笹塚)などを守ることが、世界の平和につながるという想像力の由来はどこにあるのだろう。セカイ系?戦隊もの?それともさかのぼって大東○共栄圏構想?

 

 そんな身近な半径数キロ数十キロメートルの平和を守るという想像力と、どこにでもつながる(便宜的にそう想定する)インターネットの想像力、さらにはファンタジーやSFにおける異世界への想像力とが相互に補完しあっていろいろな作品ができあがっているのだなあと月並みながら感じる次第である。

 (内容記述や作品の見方のおかしな箇所はいろいろあると思うが、ご容赦いただきたいとだけ、最後に申し添えておく。)

 

[最終回を見てからの追記]
 ゲーミフィケーションによる協同の勝利(もちろん濫用はあるにせよ)ということでいいのだろうか。
考えてみれば、同種の作品にサマーウォーズがあった気がする。そこにイエ制度の問題が関わっていたのがサマーウォーズで、中間団体に焦点を当てたのがこの作品ということなのだろうか。
東のエデンは未見。)
 これは明確な「勝利」という類のものではなく、はじめが「大丈夫」と言わずにこれからのことは「わからない」と言ったことも、またおそらくカッツェと共存して生きる道をとっているだろうことも、混沌のなかでの共生を示している。さらにいえば、ひとりひとりが「ヒーロー」であるという命題によって示されているのは、勧善懲悪的な世界観に(これまで幾度もつきつけられている)アンチテーゼなのだろうし、カッツェを赦しているということもまたそのひとつの現れなのだろう。(繰り返しになるが、スイートプリキュアのラストにおいて、ラスボスであるピーちゃんもまた赦された存在であった。この赦す赦さないという言葉を使うこと自体がどこか自分自身のなかにある正義や悪の捉え方の限界を示しているような気もするが、ここでは触れられない。)
 
 最後まではじめは一本調子なキャラクターであるがゆえに感情の振れ幅が(一見)ほとんどないのが、少々キツかったというのが正直な感想である。そこは、画面の演出などで感情の機微を読み取ればいいのかもしれないが、そういう見方が自分にはできない。丹下桜の演技に癒され、宮野真守の演技にクスっとさせられた。

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【アニメ】「ガッチャマン クラウズ」雑感」)