荒れ小屋

ごめんなさい

20130928架空の日記

昨日書いたガッチャマンクラウズの感想で、技術は使い方次第で良いことにも悪いことにも使えると書いた。これを自分の言葉としてテキストに起こしながら感じていたことがひとつある。


 (科学)技術は何のために生まれてくるのだろう。
 問題にしたいのは、生み出された技術そのものが既にイデオロギーとなっているのか、それとも技術を生み出す側の意図がイデオロギーであるのか、ということである。
 生み出された技術は、「良いこと」に使う意図が最初からあったとしても、それが人々を誘導する、人々の生活を方向づけるのであれば、そこには管理の萌芽が不可分にあるのではないかということを考えるのである。

 

 だから、ある技術そのものが人々の生活を豊かにするということは、もしかしたらその理念がイデオロギーであると同時に、技術そのものが原初的にイデオロギーであるという二重の性質をはらんでいるのではないか。

 

 技術は人を解放する場合もあるが、同時にそれは人の技術への隷属ともなる。技術をどう操作するかは自分にはわからないし、おそらくこのまま一生技術へ隷属したまま生きていくのだろう。この解放と抑圧を抱えたまま生きていくこのような矛盾と諦念は悪いこと、払拭すべきことなのかどうかもわからない。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【日記】技術における解放と抑圧」)