荒れ小屋

ごめんなさい

20130929架空の日記


 ある作品は大多数の人の手によって出来上がる。いろいろな思いがこめられた作品に対して、感想を書くことを恥ずかしく思っている。おそらく、作品を作り続ける環境整備のためにモノを買ったりすることは推奨されども…。


 出来上がった作品に対して何かを言うことは、作品のあらすじをまとめ、作品の製作背景をまとめ、作品そのものに内在している社会的な文脈をまとめる「紹介」の域に留まるべきなのか、それとも作品内のあれこれの代替的な可能性について言及するところまで手を伸ばすべきなのか。このようなことを考えても、作品をつくる者の腹がふくれるわけではない。

 

 語られ続けること、語り続けることの意義を無理やりにでも語ろうとすると、何も生み出せない者の弁護と擁護にしかならないのではないか。それが例えば、これまで語られることの少なかった作品の重要さを強調し、不特定の他者に紹介をし、どこかで購買の回路に接続されたとしても、製作第一主義の立場にはかなわない。語ることから買うことへの移行が製作者の生殺与奪につながるとしても、作られたものは尊いし、作ることは尊いような気がする。

 

 その尊さは、生存維持のための行為にとどまらない、半永久的に残ることを志向した行為が持つ性質なのだろうか。製作者の肉体が滅びてもなお、そこにいた証が残り続けることを、尊いという言葉で表していいのかどうかは、自分にはわからない。
 
 何か作ることを尊いことだとして考えるならば、生み出した技術、技術を生み出すことも尊いのだろうか。昨日の日記に書いたことは、技術を使う者のイデオロギーと生み出された技術が原初的にはらむイデオロギー(というよりも肉体、肉体だけでなく心も管理するあり方)についてであったと思う。少なくとも、作品を生み出すことで語りが生み出されるということが、従属であったり隷属であったりすると考えるのであれば、何も生まれない、という気がする一方で、それはプロパガンダに利用されることなども念頭に置かないいけないように思う。

 

 モノを作ることと、技術を作ることとの違いを考えなければならないと思う。しかし、それを考えるほどの力が今自分にはない。少なくとも、モノを生み出すための技術の場合は、多くの場合わけをして考えなければならないのだろう。また、ここで漠然と「モノ」と指した作られたモノたちの性質の違いについても分けて考えなければならないのだろう。生存のために瞬時に消えてしまう食糧の場合ではなく、おそらく広く「文化」として呼称するモノのなかでの性質の違い。このように細分化してそれぞれを詳述する営みを突き詰めていけば、もともと存在していたモノとモノとのつながりや切れ目を見逃すことになるのだろうが。

 

 自分自身は、解釈の共同体(要は、部室でのおしゃべり)に参加し続けることだけが自分に与えられた居場所だと思っている。それは「ヨイコノミライ」に出てきた醜い男たちそのものなのだろう。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【日記】文化を創り出せない者の僻み」)