荒れ小屋

ごめんなさい

20130930架空の日記

日曜日、こちらに来てからあまり観光らしいことをしなかったので、街の中心部に行ってみた。郷土料理を食べたり、博物館をめぐったりした。

 

 大学のキャンパスで古書市が開かれており、何かおもしろそうな本は無いかと物色していたら、とある少年に肩をたたかれた。なにかと思ったら、どうやら寄付を募っているとのことらしい。本当かどうかはわからない。こういう時に募金すべきかどうかわからない。だが、断る能力と気力がなかった。小銭を渡そうとすると、最低10ユーロから、と彼が持っていた募金者署名リストの注意書きを見せられた。すでに10人近くが払っている。少年は話すことができないらしい。演技かどうかはわからない。お金が無いそぶりを見せると、5ユーロでいいからと示された。しかし、あいにく財布のなかには20ユーロ紙幣しかなかった。逃れようにも逃れられず、20ユーロ紙幣を払い、結局少年から「おつり」の10ユーロをもらったのだった。善意や悪意についてどうこう語ってもしかたがないと思う。自分の10ユーロがどんな使われ方をしようとこの際どうでもいい。

 

 多くの人が集まる都市で、いろいろな工夫をしてお金を稼ぐ場面に遭遇する。例えば上記の募金の例のように、「最低限度額」を決めておくこと、人のよさそうな観光客を狙い撃ちにすることというのは、違法かどうかは知らないが、都市のなかで生き残るための工夫であり技法なのだと思う。(詐欺を許容してるわけではない…。)他に見かけたのは、電車内で新聞を売る人、駅や街頭で楽器を演奏する人など。

 

 都市における資本の蓄積と再配分の問題、社会保障の問題など、自分には見当がつかないのだけれども、日曜日に体験したことを通じて、政策の不備や経済の仕組みをどうこう言っても仕方がない気がする。野暮ったい言葉でいえば、この事態が遠い歴史のなかで解決しようにも解決することができなかった「都市のリアル」なのではないかということである。ある「問題」に解決策を与える、解決策を考えることは確かに重要なのだけれど、一方で「問題」が別の「問題」に形を変えて生き延びていくことにも目を向けないといけないのかもしれないし、別に目を向けたところで何がどうなるわけでもない、ということも思ったりする。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【日記】【文献メモ】都市のなかで生き残るために」なお、文献表は削除した。)