荒れ小屋

ごめんなさい

20131001架空の日記

 今日は、3週間と少し滞在していた都市から別の都市へと移動した。高速鉄道を使っても5時間かかるので身体的にはしんどい旅だった。荷物も重く、20数キロのスーツケースを運ぶのに一苦労である。


 相変わらず、駅中や街の売店で何か軽く食べられるものを買うのは苦手で(パン屋さんがそこここにある。)、結局今日の昼はプラットホームに設置されている自動販売機でワッフルと棒状のケーキを買ってしのいだ。計1.5€ほどだろうか。勇気を出して売店でサンドイッチでも買った方がはるかにマシだろう。一度買ってみたとき、意思疎通がうまくいかなくて、店員のお姉さんをいらいらさせたのがトラウマなのだ。
 

 日本では冬学期が始まったり、内定式があったり、慌ただしく新しい節目をむかえている。自分の新生活も気がつけば半年経っていた。最近は、時間を無為に過ごすことに対して罪悪感を感じることが薄れてきたように思う。そういう生き方しかできないのかもしれない。

 

 そういう生き方しかできないんだ、という言葉はとても卑怯だと思う。俺は俺、お前はお前という言い方があまり好きではなく、そこで相互理解の断絶や間主観性の拒絶が起こっている気がする。最初から突き放して各々好きなように生きるよりも、とりあえず話し合って(超えてはいけない限度を確認しあって)好きなように生きるという話ならば、まだマシなのかもしれない。

 

 この自分が使った「マシ」という言葉そのものに、自らの利益、快をどのように守るかということを第一に考える傾向が現れている。最初からこのように考える特性が備わっているのだろうか。それとも教育の賜物なのだろうか。他者を侵害して(暴力などの話は置いておいて。)生きると自分も生き辛くなるというのは本能(本能という言葉を使う必要があるのかわからないが。)なのだろうか。自分が生きるためには必然的に他人のことを考えなければならない。環境としての人間関係がそこにあるように思う。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【日記】環境としての人間関係」)