荒れ小屋

ごめんなさい

20131002架空の日記

昨日の日付で投稿しているが、実際にこの日記を書いているのは今日である。毎日短くてもいいから、何か記録していきたい。こういう風に「○○をしたい」と言葉にした時に、それが叶うことは希ではないかと思うのだけど。

 

 そろそろ帰国の日が近づいてきた。連日、立ち仕事で過ごしていたので、首や肩が痛い。同じ姿勢で居続けるとすぐに体が音をあげる。

 

 作業中は、現地のスタッフにお世話になることが多く、遠い「極東」の地からやってきた、言葉もままならない自分を、仕事だとはいえ無碍にせず親切に対応してくれるのがありがたい。

 

 一方で、売店のお姉さんなどは素っ気無い対応を見せるので、やはりもらっている給金の分のサービスをしているだけなのだろうか、という気もする。

 

 文脈から解放されること、人称から解放されることを考えていた。ありていに言えば、自分が自分でいるのが嫌だし、自分がおぼつかない足取りで少しだけでも築いてきた人間関係や制度とのつながり、個人の経験や歴史から解放されたいということを考えていた。すべてから解放され無になれば、[自分探し]をしなくてもよくなる。すべてから解放されひとつになればなにもかもうまくいく…などと思っていた。今も思っている。しかし、現実にそうなるためにはおそらく手段として死を選ぶ程度の選択肢しかなく、そんな度胸は無い。

 

 なら、自分を肯定し、例えばSNSで、すべての出会いに感謝などと書き込めばいいのだろうか。それも一つの生き方だとしても、ほかに、自分を否定しながら、死なずに生きていくことを選び取ることだって考えることができるように思う。ここでの否定は、他者からの承認を求めるような自己否定のあり方ではなくて、孤独な作業なのだと思う。反省を繰り返し、自ら死なずに生きていく。自ら死なずに生きていくために、うまくいかない人間関係の、それでも少しは救いがある部分を拾っていく。

 

 こうやって見ると結局死なずに生きるという面ですでに自分はすべて肯定しているような気がする…。とにかく、「分かり合えなさ」も「分かり合える」こともどちらもおそらく、ある程度の年月を死を選ばずに生きていくのであれば、それらのバランスをとりつつ、自己との問答や他者との関係のなかで交互に適用させてみる、ということくらいしか、今のところ言えないのがもどかしい。

 

 ブログにブログそのものの話題と、どう生きるかということを書き出したらすでに更新停止の予兆だと思う。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【日記】自己否定と自己肯定のバランス、及び死」)