荒れ小屋

ごめんなさい

20131004架空の日記

2013年10月第1週目のテレビアニメについて、一言ふたこと感想を書いていきたい。見た分だけ追記していく形にしようと思う。

 

・「凪のあすから」1話…おそらく、どこか舞台となった町はあるのだろうが、これまでのTrue Tears花咲くいろはTARI TARIと比べて世界観がファンタジー的であるように思った。場所の独自性を今のところあまり感じさせない。
 「陸の世界」の港町(漁村)は、「海の世界」の生活圏を侵害しつつあり、さらに「陸の世界」と「海の世界」との間での祭事の取り決めを反故にしようとしている。例えば、「都会」と「田舎」、「都市」と「ムラ」のような区分で物語を描くのではなく、また「郊外」や「住宅地」などを描写するのでもなく、これを見て思ったのは単なる「ムラ」同士の諍いに見えるということである。だが一方で、「海の世界」における因習的な性格、ムラ社会的な性格が目につく。その中で、光がどう育っているかというと、まなかに対する露骨なまでの亭主関白的な振る舞い(「まなかは俺の後をついてくれば…」などのセリフや振る舞い。)、というか父権主義的な振る舞いをするようになっている。それは、「陸」と「海」の対立を内面化しているからこそ、過剰なまでの「まなかを守ってやらなきゃ」という姿勢につながっているのだろうか。また、同時に「ムラ社会」的な物事の取り決め方を(ある程度反発しながらも)内面化しているからこそ、パターナリズムが醸成されているとも言えるかもしれない。
 この行為が、本当にまなかのことを思ってやっていることなのかどうかはわからない。彼がまなかの言葉や本心と対等に向き合う時に、彼の成長が示されるのだろうか。光が、呪いのかけられたまなかの足を見ることができるのは、光とまなかのそれまでの関係に基づいているのかもしれない。しかし、紡がまなかの足を見ることができたのは、彼がまなかの不安を取り除いて、(まなかが海の世界の者であっても)対等に接してくれたからということ、アバンで運命的な出会いをしたことなどの要因があると思われる。親密さを表す行為それ自体は、2人の関係性によってまったく意味の異なるものになる。まとめれば、同じ村で育った光とまなかのパターナリズムな関係性の中で培われた長年の幼馴染としての積み重ねやつながりが許容させた行為と、紡とまなかという所属が違う者同士がはじめから対等な関係でいたからこそ許容された行為(おそらくそれが後の恋愛劇へとつながるであろう。)という違いである。
 「海の世界」の幼馴染同士でも恋愛感情のもやもやがあるばかりか、敵対するムラ同士の人間関係のなかでも痴情のもつれがありそうなので、人間関係の修羅場や思いの行き違いや葛藤などがしっかりと描けていれば良いと思う次第である。

 

・「アウトブレイク・カンパニー」1話…テレビアニメにおいて、段々と「働く」ことを素材とする作品が増えてきているのは気のせいだろうか。働くこと、それは賃労働であれ、交易であれ、経営であれ、戦略性や計画性が強く要求される。(私は働いたことがほとんどないのでよくわからない。)このように漠然と想像している労働、というよりも「お金を稼ぐこと」「サービスや商品を通して人とつながること」「職場内での人間関係」etcに対する想像力と、ファンタジー世界で異世界を旅したり防衛したいるする際のやり込みゲーム的な想像力が接木されているという流れがあるのだろうか。働きたくないでござる。
 この作品自体の感想を述べるとすると、「オタク」に対する理解を異世界でのどう広めていくか、「平等」に楽しめる文化=娯楽の提示が世界に何をもたらすのか、主従関係を乗り越えてわかりあうことは何かというのを拾って見ていけばいいのだろうか。一方で、「オタク文化」の「わかるやつにはわかる」というスラングの多様、及びその文化のもつ包摂だけではない排除の機能的側面なども物語のなかで見えてくるのであれば良いのかもしれない。
 
・「インフィニット・ストラトス2」1話…シャル、ラウラが可愛かった。

 

・「アイカツ!」51話…2年目に入った。ロックアイドルを投入してきた。2年目の大まかな流れの提示という感じで様子見。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【アニメ】2013年10月第1週目テレビアニメ短評」)

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