荒れ小屋

ごめんなさい

20151017架空の日記

・以前読んだ論文を再訪する際、いかに自分が最初にその論文を読んだ時に理解や把握をしていなかったかに気付かされる。
目を通す際の関心によっては読み飛ばしている節もある。情けない話であるが、語学も不得意で、調べつつ読むことをあきらめてしまう日もある。
それでも、いざ自分の作業のために読みなおしてみると、やはり発見がありうれしく思う。もちろん、事実発見的な話ではなく、論点をようやく把握できた(できそう)という意味であるが。
本来なら最短コースで要所を押さえた読解をしたいが、なかなかうまくいく気配がない。ただ、こういう小さな落穂拾いを続けていかないと、もはや急激な成長が望めなくなった今、本当に何もなくなってしまう。
そのためには、わからなくてもメモをとるしかない。テキストメモに、章・節・段落ごとのキーワードレベルでもいいから、読んだ記憶を残しておいて、あとで戻ってくる作業を地道に続けるしかない。
そして、回り道かもしれないと思っていた読書の記憶も、効果があると思う。(少なくとも、今日の作業においては。)道草の際、凝り固まったままモノを見る作業をする時と違う頭の使い方(雑な表現)をする。例えば、なんとなく履修したゼミで文献を読む際、正直自分の作業の時ほど根を詰めているわけではない。もちろん、レジュメを切ったり、教員の説明をメモにとったり、そのような作業はするけれども、陳腐な言い方をすれば、追い込み中の視野狭窄にはなっていない。そんな気がする。その場で馴染ませるように把握した枠組みや考えの仕組み、概念の布置連関が、もちろんいつ活用されるかはわからない。しかし、迅速なインプット・アウトプットの勉強が人より苦手であれば、こういう方法で戦略を立てるしかない。
もちろん、体系立ってない知識の断片ばかりを詰め込んでもどうしようもない局面が作業中に出てくるし、そこが勝負をかけるところだと思う。思いつきの関連性の羅列になってはいけないから、そこは根拠づけを頑張らないと、と根性論的に思ってしまう。この勝負、負け続けている気がする。

 

・先週、別々の講義で、過去の歴史的文脈を把握する難しさを思った。予想する以上に難しい作業だと思う。当時の常識や共通理解とされている言説を同定する基礎作業を続けること。その編成・ネットワークがうねる様を総体として描くことは難しい。激しいうねりの一部を焦点化し、切り取ることもとても大きな作業のように思える。少なくとも、オチが決まっているような話をすることはできない。つまり、○○化のような枠組み優先の話で何かを照合する作業の利点と、不利益を被る局面はどこなのか。