荒れ小屋

ごめんなさい

20151218架空の日記

・この個人商店は、実入りが少ない割に、手弁当になることが多い。その持ち出しには色々な水準がある。

今日は、積みに積んだ、仕事で使う紙の山(要はコピーするだけして読まないままの論文や、ゼミで使った文献コピー、レジュメ)を多少整理した。

これまで、ぺらぺらのクリアファイルにとりあえず突っ込んで放置していたものがいくらかあった。お世辞にも、研究遂行能力があるとは思えない。整理整頓なら、小学生の方がよっぽどしっかりしているのではないだろうか。自分は小学生の頃からダメだった。

さて、コピーをする際にはお金がかかる。多少はコピーカードの無料サービスが使えるが、そうではない場合、自費になる。

図書館にコピーしに行くのが面倒な時、複写を頼むことがある。これは余計にお金がかかる。文献が共有される場合は、共同で使っている仕事部屋のプリンターで印刷をする。みんなが競うように機械を酷使するので、よく壊れる。

とりあえず、1日に2本論文をコピーすると考えて、20pの論文を2つ、200円ってところか。

200円の30日で6000円、その1年で72000円はかかる。

 

この本の部分コピーや論文、とりあえず管理しておく必要がある。

本の半分以内の分量であれば(配慮)、A4横向きの厚紙ファイルに綴る。これは生協で売っている、一番安いやつだ。

5枚入っていて、351円。

ゼミや研究会の個人報告や文献報告も、各会毎にまとめてファイリングをする。

 

bungu.univcoop.or.jp

 

ある程度、テーマ別に個別の論文をファイルする時には、60枚か40枚のポケット付きのやつを使う。60枚なら550円。

http://www.kingjim.co.jp/archives/news/0911/01.html

 

上で、一ヶ月に60本の論文をコピーすることになっているが(実態はともかく)

これなら30日でファイルがいっぱいになってしまう。二つのファイル代を考えると、年間で1万程度はかかるだろう。

 

そんなこんなで、年間10万円程度はコピー代と文具代で最低飛んでいくのではないか…。以前書いたエントリーで、学会報告のレジュメ印刷にはお金がかかると書いた覚えがあるが、それも含めるといくらになるだろう。

家計簿を厳密につけていないのでわからない。

 

あと、ファイル保管場所としての棚も仕入れる必要がある…。難儀だ。

 

ガールズ&パンツァーの劇場版を見に、立川まで行ってきた。いわゆる爆音上映である。上映館であるシネマシティだが、立川駅北口を真っ直ぐ進んだところにあるシネマワンではなかった。最初勘違いをしたまま向っていて焦ってしまった。左折するとモノレールの線路が見えるが、モノレール沿いの建物のひとつがシネマトゥーで、そこで公開している。

シネマトゥーに入り、発券を済ませ、上映前まで少し並ぶ必要があったが、コミケの列を思い出していた。東館と西館をあたふたと往復していた頃の記憶がぼんやりと蘇った。

内容についていくらか妄想(感想)を残しておきたい。

オールスター出演(制服サービスあり)の上で、おそらく本編では描ききれなかった各登場人物の関係の補完を行っている。また、新しいつながり、もともと異質な高校が共にチームを組むなかで培われていく絆も、元からあったつながりを違った角度から映し出す効果をもっている。

個人的には、西住姉妹の回想場面の郷愁が一番心に残ったシーンだった。(この姉妹がわだかまりをほぐしていく様が、後半の対戦の大きな鍵となる。)この郷愁は、単なる回想ではないと思う。学園艦から離れた上での共同生活を再び「陸」で、おそらく馴染みはあるのだが、久しぶりに訪れた土地で行うことになる彼女たちが、まずねぐらにしたのは、文字通りの廃校舎であった。係留するだけの場であった土地に根を下ろすことを余儀なくされ(もちろん、転校が決まれば散り散りになるのだから、その場しのぎには変わりないのだが)、その上で自らが直面する現実を(自分だけでなく家族と)捉え返す必要に迫られる。ここでは登場人物の一部が、それまで学園艦で担っていた役割から解放されたアノミー状態になり、一種の退行を起こす。(桃のような頑張りももちろん見られる。)

既に終わりを迎えた空間で、自省と退行の空気を経由しながら、それぞれはそれぞれが出来ることをいつものように繰り返していく。(自省と退行にそれぞれ等しい意味付けをするのは無理があるかもしれない。)郷愁は用意されたものとしてあらわれる。

まだこの段階では後半の試合の話は出ていなかったように思うが、有り体に言えば、不安定な状況のなかで次に進むために必要な作業が郷愁を発生させる空間で必然的に発生する。生真面目さの塊が必要以上に統率をとり、また逆に融解していく躁鬱状況の中で、次の一歩を見据える作業が(作品内在的にも、登場人物の心情内在的にも)必要になるのではないかと考えた。

ただし、いつも割合冷静な西住みほも、ボコランドでボコられグマを見て、これまでにないテンションを見せている。ボコが好きなこともあるが、そこに回収できない気持ちの昂ぶりもあの場面にはあらわれているように思える。(個人的には、荷物詰めの場面でのまいったな…という感情の出し方が人間っぽくてよかったように思う。)

あのボコランドの場面ではじめて対面したアリスは、ゲストキャラクターの位置づけとしては少しぼんやりしていたように思われる。あの個性際立つ数十名のキャラ造形と比べると、少し物足りないものを感じる。お話の流れとして彼女が負けることはかなしいかな決まっており、どう負けを決めるか、ということに強調点が置かれるのではないかと勘ぐりを入れたくなる。いや、勝敗はある意味どうでも良いのかもしれない。(むろん、作品内で廃校阻止に向けて奔走するのだから、当人たちにとって勝敗は大事なのだが。)

カチューシャやアンチョビ程のキャッチーさはない。敵のキャッチーさで惹くことも十分出来るかもしれないが、どうやら戦車道には人生が詰まっているらしい。この対戦を通してあらわれるオールスター各人の生き様を、それぞれの人間関係と成長に仮託させながら描くことに強調点があるのならば、アリスそのものを骨太に描くことはしなくとも十分であり、成長と勝利への導き手として存在すればある種十分なように感じる。

結局のところ、倒したのはボコランドそのものであるようにも思えるし、そうであるとするならば、そこに込められた思いは、必ず学園艦に還るという気持ちであり、ボコられても立ち上がる不屈の気持ちなのかもしれない。陸という彼女たちにとっての生業の土地ではない場における幽閉・呪縛*1から逃れるために設定された、打ち倒すべきスケープゴートがこの半ば廃墟と化した遊園地そのものだったのではないか。(志を同じくするものに倒されることがアリスの一種の本望であるようにも一瞬思えた。結局、親への言伝でボコランドそのものは復活しているようだが…。「あのままでは潰れてしまう」というアリスのセリフがあったように思うが、潰れてしまうのは一体何か。ボコランドだけなのか、ボコに重ねた自らか。)

 

 

*1:同じ監督の『監獄学園』もボロ校舎、というか劣悪な監獄だったことを思い出した。