荒れ小屋

ごめんなさい

20160111架空の日記

・年明けの5日が修正原稿の〆切で、年末年始ゆっくり出来なかった。

一日中作業をしていたわけではないけれど、圧迫感や焦り、不安ばかりで、

何もせずに休んでいる時もあまり休んだ気にはならなかった。

 そんな中でもSHIROBAKOの一挙放送も割とちゃんと見てしまったので反省したい。〆切直前までずっと作業をして推敲する時間が取れない癖をどうにかしたい。正直アニメ見てる方が楽しい……。
 5日から6日に日付が変わる直前にぎりぎりで郵便局へ駆け込み、なんとか提出は出来たものの、おそらく掲載には至らないと思う。

 7日には研究室全体の構想発表セミナーがあり、その準備をしなければならなかったので、6日は急いで構想を練る。
 7日の報告当日でもらったコメントは、やはり各章のつながりが他人にわかりにくいということ、方法の曖昧さ(古典的な区分であれば、インターナルな解釈のアプローチなのか、エクスターナルな解釈なのか)、どういう視点や概念で各章を展開していくのか等、全体を統括する視点が足りないということ、そしてどのような人物像を新しく提示出来るのか、そもそも筆者自身が抱いている像がどのようなものかわからないということ、資料の全体設定等だった。

 翌日の面談では、もう一度基本文献を読みなおした方が良いと言われた。そもそも本を読む力が無いことが改めて露呈した。本は読んでも読まれるな。
 8日にレポートの提出、11日にもレポートの提出があり、ようやく一段落ついた。9、10、12日と新年会も挟みつつ、13日に研究会。14日から20日頃まで帰省の予定。24日はまた研究会……。
 新年度になればまた学会報告の予稿を考えなければならない。去年は結局国内は二件だったので、今年のパターンは6月頃に二回+10月頃に二回の計四回か、どこか一回分減らして三回程度か。そもそもあまりネタが無い……。
 教員も仕事の同僚達もみな忙しなく働いている。自分は正直つらい。最近は学部生の希望にあふれた発言を見聞きするのが本当につらい。

 

・「新しさ」を考える時に、「新しい」ことと「重要である」ことと「議論が開かれたものになる」ことの三つの間をイコールで結ぶことは難しいと思う。開かれた議論になるには、新しさと重要さが担保できればある程度可能な気はするが。
 「新しさ」を喧伝する割に含みが少ない、という事態を考えてみる。そもそも、どうしても自分は新しい技法も考えにも馴染めない。それなら、アナログな視角でも含みが多く言える対象や素材を見つけ出す方が良い、というか生存戦略なのではないかという気がする。
 もちろん新しい技法技法で発展していくために含みや意義を考えずに発展させることは重要であると思う。でもそれは多分自分の仕事ではない。
まあ、「新しい」ことと「重要である」ことの等閑視を出来るだけ避けていたら、なぜかカビの生えたようなテーマをやることになり、加えてカビの生えたテーマはおそらく「新しい」こと以上に重要さや意義をエクスキューズすることが難しいというどうしようもない事態に陥ってしまった自分が何を言ったところで仕方がないのだけど。おまけに、何ら政策的な含みを持たない、公共における規範を考える手立てにもならないような仕事に、どのような意味があるのか……。でも、古くなったことは重要でない、議論も実りがないとそう簡単に言えるのか?
 つらすぎる。こうして人は潰れていく。もしくは、こういう疑問に直面することがすぐに分かるからこそ、考えなくても良いことを考えるハメになることが予測出来るからこそ、潰れないようにみんな方針を立てるのだろうなと思う。そういう賢しらさに徹底的に反抗する気力は、加齢と共に消えていく。いや、今の仕事場に入る前は、業界の見取り図が本当に何もわからなかったのだ。

 

・10日は『傷物語』と『ガラスの花と壊す世界』を鑑賞した。どちらの作品も、出演する声優の数、というか登場人物が少ない作品だったように思われる。時間も1時間と少し。その時間で話を展開するのなら、数人でも十分なのか。
 『傷物語』は、湾岸の工場地帯の背景を丁寧に描いていたり、工場萌えや廃墟萌えの人にとっては良いのではないかと思った。それらを撮影するカメラの動きも凝っていたように思う。(どう凝っているかはわからない。)落下シーンや爆発炎上シーンは映画っぽいなと思う。キスショット(縮小してからの)の描き方は、なんというか筋金入りの好き者がいるのかなと思わせてくれる。
 『ガラスの花~』は、第一印象としては、女の子のかわいさを全面に出し、それを邪魔しない程度のストーリー…という感じであった。なんというか、閉鎖された世界で、ペアの二人主人公がいて、それに突然もうひとり謎の正体不明の人物が転がりこんできて、ペア二人の関係(もうひとりも含めた)やそれぞれの心境も変わっていき、しかしながら最後にはもうひとりは去っていく…というのは、ある意味単線的というか、話に起伏があるのかと言われればよくわからない。(リモは、えとたまのウリたんのように消える役目を果たした。)
 ベタではあるが、ふつうの人類の世界でキャッキャしていると思いきや、実はバックアップされた世界であったのだ、という暴露型の仕掛けがあるわけでもなかった(最初からデータの世界で話が進むので)ので、そういう点でも盛り上がりに欠けたような気がする。好みの問題ではある。そういう暴露型の展開では見る側にストレスになるだろうし、三人の関係を見せづらくなるという判断があるのかもしれない。

 

・結局去年は劇ラもここさけも見に行かなかったので、今年はアニメ映画は積極的に見に行きたい。
 最近(ざっくり)は地方に住んでいてもインターネットを使えばアニメを見ることが容易になったと思う。一方で劇場版が増えるということは、映画インフラの地域間の差によっては、ふたたび歯痒い思いをする「地方民」があらわれる、ということなのだろうか。(余談、検証もクソもない話だが、やはり自分もアニメ視聴機会格差の解消を求めて上京したフシがある。)