荒れ小屋

ごめんなさい

20160811架空の日記

・昨年の9月に祖父が亡くなった。先日、法要があり、母の実家まで向った。母と叔母の折り合いが悪い。勘弁して欲しい。認知症の祖母は相変わらずであった。自分の母親の介護の段階になったら、自分はどうなるのか、何をしてしまうのか。今心配しても仕方がないことだが。
 父親は今思い返すとモラルハラスメントの常習的な加害者だったように思う。それは今この時点で言葉を与えるとするならそうだ、ということであり、単に癇癪持ちで粗暴な性格であっただけなのかもしれない。
 戦前生まれの彼は僕が上京してすぐに亡くなってしまった。そのことについて、自分は喜ばなかったと言えば嘘になるだろう。

 何度も何度も亡父との諍いを夢に見る。苦しめられているのか。

 

・何を「正常」、「合理的」とみなすかは置いておいて、仮に正常で合理的な判断をすることの出来ない成人に囲まれて生活していると大概の子どもが感じたとしても、「家庭」という集団・組織の存続においては「非合理的」な挙動の方が「合理的」という場合がおそらく多いのではないか。有り体に言えば、組織存続においては合理的な性格を持つ肉体的・精神的暴力を行使することが出来る成人。

 

・巷で言われる「毒親」ほどはひどくは無いように思う。すべての家庭には暴力がつきまとう。だからよくある一例であるとも思える。
 そろそろ「毒親」について、卒業論文程度のものが出てくる頃合いかなと思う。AC問題とどう重なりあうのか、等個人的に知りたいことは多い。

 

・「ディストラクション・ベイビーズ」を見に行った。暴力の連鎖によって彩られた作品だと思った。簡単に思ったことを残したい。
 まず、怪物的な暴力、暴力が生の一部となっている主人公に触発された少年が繰り出す暴力はあまりにも惨めであった。要は自分よりも力では劣る「女性」を殴りたいと思うような暴力の惨めさである。その少年は、普段つるんでいるグループの中ではビビリな「陰キャラ」のように思われる。おそらく権威に弱く、後ろ盾を求め続ける性格であろう。この点が、ある意味では滑稽さを醸し出しており、惨めに思われた所以である。
 少年がSNSを用いる描写についてはあまり好みではなかったが、突発的な暴力から逃げる者を記録する場面には惹かれた。その記録には暴力を楽しもうとする少年の声も記録されている。「女を殴りたい」という発言然り、鑑賞する者の衝動を刺激するような描写に思えた。
 個人的にその少年はあまりに「凡庸」であると感じた。彼は、怪物と共に過ごすことで徐々に主人公に畏怖の念を抱くようになり、また主人公から承認・認識されないことに苛立ちを覚えるようになる。
 少年は暴力に「意味」や「価値」を見出していた。しかし、主人公にとって暴力は価値を持つものではない。というのも主人公は息をするように人を殴り、食事をするように人を殴る。ひたすら暴力を遠巻きに映す場面によって、暴力がそこにあるという認識が呼び起こされるが、それ以上の作用は無い。
 最終的に主人公は故郷に再び上陸する。その場面の静かな戦慄が、喧嘩神輿の喧騒と対比される。無意味な暴力が何らかの意味を持つのだとしたら、まがい物の暴力(通り魔少年や喧嘩神輿)が破壊される時においてであろう。(ここで見出される意味や価値も、実のところ天災みたいなもの、としか言いようがないのかもしれない。)
 もうひとりの主人公である万引き女について。とにかく利己的で底意地が悪い造形がされていた。
 どういう意図や構造を持つ作品なのか述べることが難しい。おしまい。

 

・また、某怪獣映画も見に行った。やはり破壊によってもたらされる気持ちよさがある。いかに破壊されるかを楽しんで見た。

 

・暴力の経験を語ることは難しい。語ろうとすると心が乱れる。整理して語るにはそれなりの技量がいるように思える。何かを読み、学ぶことに仮に意義があるのだとしたら、言葉にすることが難しい経験について言葉を尽くすこと、言葉を尽くすことでもやもやした気持ちを沈めることにあるのだと思う。それはともすれば診療的な意義になってしまう。何か、政策としてこうしたら良いのではないですか、という提言をすることにはならない。「非合理的」な心の動きに対して、図式にあてはめる形ではなく、光を当てるにはどうしたら良いか。言葉を紡ぐことで救われる何かに目を向けたいと自分は考えているのか、と思ってしまった。それは「解釈」という方法ともまた違う。「解釈」と言ってしまったら雲散霧消してしまう何かもまたあるような気がしている。