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荒れ小屋

ごめんなさい

20160821架空の日記

・この歳になるまで歳相応に経験すべきことをあまり体験してこなかったことに対する負い目が拭えない。割り切って生活すればいいとも思うけれど、もやもやしたまま過ごしている。書くこともないとそんなことばかり考えている。
 次の世代に何かを残すことを試みても、伝えられることは拙い修学の経験くらいしかない。もちろんそれを伸ばして活かす道もある。「何もしてこなかった自分」の意識が邪魔をする。自尊心が欠如している。(拙い経験でも、嘘をついて誇張やハッタリをかませば、引っかかってしまう人も世の中にはいるのかもしれない。自分のお世話になった小学校の先生をひとりの成人として見つめなおした時、今の自分は何を思うだろうか。)
 伝えることばかり意識しても、そもそも何かを後続の人に伝えることが即良いことなのかどうか、わからない。とりあえず何か、自分の「仕事」を半永久的に残しておいて、自分の見知らぬ誰かが後世その意を汲みとってくれれば良い。そういう傲慢さに支えられてかろうじて自分は生きているのかもしれない。(職能的なノウハウの引き継ぎとか、そういうことはよくわからない。)

 

・自室の床に資料を積んでいるのがあまりに不格好だったから、とりあえずカラーボックス(二段)を三つ購入した。普段使わない利き腕の筋肉が張っているのがわかる。プラスドライバーで棚板のネジを締める作業で首から肩にかけても痛めてしまった。
 昔に授業でもらった資料や、読みそうもない(だけど重要な)新書はスキャンする頃合いに来ていると思う。

 

・会う人会う人に「太った?」と言われることが増えた。食べる量が増えた。運動もしない。典型的な肥満に突き進んでいる。ダイエット日記始めたいと思う(始めない)。
 歯も少し悪くなってきた。自己メンテナンスをしないと乗り切れないのがつらい。最近、やっと風呂あがりの化粧水を使い始めた。心が擦り切れるばかりだと思う。

 

・特に進捗があるわけではない。毎日ほんの少し資料の要約を進めている。作業量が明らかに不足している。もう辞める頃合いかもしれない。

 

・テレ東で『秒速5センチメートル』を流し見た。散々語られてきたであろう作品でありながら視聴したのははじめてだった。例に漏れず自分も何か思ったこと感じたことを書き残しておきたいと思う。
 空の描き方は綺麗なんだろうな、これが綺麗とされている空なのかなと思った。空の延長に果てしない宇宙があることを改めて気付かされた。空をまじまじと見ることもなく、空というのが独立した空間であるようなお粗末な認識で日々を過ごしているから。
 一方、2話「コスモナウト」の海や波の描き方というのは、よくわからなかった。どこに違和感を覚えたのか自分では説明することが出来ない。綺麗か綺麗じゃないかというと、勢いはあっても、あまり綺麗な波や海ではなかった気がする。無理矢理にこじつけるなら、花苗の内面には適しているのかもしれない。思春期は色々悩ましい。
 1話について、1995年当時はやはり時刻表で旅程を確認したり、手紙でのやりとりを続けていたりする。随分アナログな小道具が配置されているから、物理的な距離の遠さを必然的に誰しも感じざるを得ないし、やきもきしてしまうポイントだと思う。とにかく手間がかかる。
 そういうわかりやすい距離や遠さとは対照的に、2話の遠さはどうしようもなく他人にはわかりにくい距離感を主人公は抱えている気がした。誰に送るでもないメールを携帯(PHS?)で打つ。主人公が理想に思う初恋の相手は、果たして別の地で今生活しているその人と同じなのかどうか。的外れかもしれないけれど、思い出になっていくその体験が崇拝される偶像に段々となっていく。そんな感じがした。(主人公がやっている弓道はその一方で努力すれば的に当たるし、距離も測ることが出来る。ロケットとかそれに付随する良い場面とかメタファーとかはよくわからない、特に考えてないので省略したい。)
 わかりやすいフック故に距離にひきつけて適当に言ってしまうのはよくないのかもしれない。二人の間の距離のわかりにくさとか遠さは当人達にしかわからないのではないか、いや当人達もどう語るべきなのか、思い出にする、時間に任せる、流れ行く生活に任せる以外の選択肢を持っていないのかもしれない、とか、そういうことを思った。
 話は変わるけれど、1話の最後でヒロインが言う「大丈夫だから」は何が大丈夫なのか?その「大丈夫」にどのような意味を込めたのか?この時点で自分はヒロインのことが何も理解出来なかった。遠くに行っても主人公はうまくやっていける、ヒロインという存在がいなくてもなんとかやっていける、凡庸な「大丈夫」の含意のひとつふたつしか思い浮かばなくて、きちんとそこは手紙渡しておけよ…という気分にもなってしまう。(また見直す機会があればちゃんと考えたい。)
 あと、「遠さ」と「近さ」(駅で再会してから)の両極端さに触れることで、互いの距離感が掴めなくなるというのはあるのかもしれない。しばらく離れていたのに、あまりにも急速に二人が近づくことで「自分が自分ではなくなるような感覚」に襲われたとして、その感覚に責任を持てるのか、自己を保存出来るのか、自己を保存出来なくなる恐怖みたいなものが彼らにはなかったのかどうか気になった。
 

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