荒れ小屋

ごめんなさい

20170107架空の日記

・新年の目標を立てたい。
自分の仕事の充実は言うまでもないけれど、もう少し娯楽とか息抜きを充実させたい。映画を見たり、ドラマを見たり、ゲームをしたり。旅行にも行きたい。あと、語学を頑張りたい。それから、絵を描きたい。同人誌を出したい。かわいい本を作りたい。絵は描けない。
2018年になる頃には何一つ達成出来ていない気がする。そうだとしても、なんとなく残された時間がもう少なくなってきている、そういう予感がある。特に大病をしているわけではないが(こう書くと死亡フラグかもしれない)、夢想をしていないと不安になる。
何かを残したい、何かを残したい、青山に土地を買いたい、「俺はやるぜ」「何を」「何かを」。
まずは日常の自分の生活を充実させることが大事なのかもしれない。健康な暮らし。でも、日常の自分の生活を充実させることだけが大事だとは思えない。自分のエゴの塊をどうやったら後の世に残せるか、みたいなことを考えてしまう。悪しき権力者はだいたい変な像をつくる。

・生活のなかにいるから、実際の生活臭に嫌気がさしてしまう。この前見た某映画がテレビのニュースだったかワイドショーだったかで「苦難のなかでも生活を大事にしている描写が評価されている」のように紹介されていて、かなり吐きそうになった。僕は生活が嫌いだ。生活を許さない。でもごちうさは好き。(ごちうさは生活ではないのだろう。)

 

・『薄花少女』4巻を読んだ。モノクロの筆致で生活、くらしを細やかに描いている。繊細なタッチで積み上げられた世界には幻想が滑り込み、また張り付いている。
梅酒を飲み前後不覚となる鳩子(ハッカばあや)がもし幼女ではなかったら、自分はその人を始末に負えない存在とみなして険しい顔をしただろう。(この「もし…」の話は、幼女ではない、という否定的な規定をするに留めたい。仮に幼女ではなく、老いた人、と言ってしまい、ある種の(疑似的な)対立を述べてしまったなら、それは配慮の欠いた一線を越えた表現となってしまう気がする。)
さらに、史の母親がすでに亡くなっているにも関わらず、酔いのためか、そのことを鳩子が忘れてしまっていた場面について、僕はグロテスクだと思った。この点については、認知症の記憶障害を連想してしまったというのが正直なところである。(前記したことを覆すようであるが、これは「老人」と「認知症」を結びつけた連想であり、この点は非常にナイーブな連想である。)確かに記憶の混濁は酔いによってもたらされたものであるものの…。

ここまで書いていて、相当程度自分自身が「老い」に対して好ましからざる感情を抱いていることが炙り出されているし、そのことに向き合いながら読まなければならない。単純に「ロリババア最高~」と手放しで言える作品ではない。
二人の生活の描写が、仮に史による鳩子の介護生活の描写であったら、僕はそれに「尊さ」を見出すことが出来ただろうか?
もし、今この作品で見ている彼らの生活が、実は独身男性と祖母の二人暮らしであり、そこにある種の幻想のフィルターがかかって読者に提示されているのだとしたら?
実際の生活においても、性差、年の差関係無く、困難はあっても、支え合える関係があればそれが「尊い」のかもしれない。この仮定が間違っているかもしれないという点は置いといて、もしそうだとするなら、僕はその尊さを受け容れられるまでには至っていない。

 

・これまでmixiFacebook、別のブログで書いた日記をひとつにまとめたい。まとめたところで…という感じだが、もし自分に何かあった時に、それだけ見てもらえれば、という配慮。(しかしそのまま載せるわけにはいかないと思う。もどかしい。)