荒れ小屋

ごめんなさい

20170813架空の日記

・いざ日記を書こうとすると何を書こうと思っていたか忘れてしまう。
先日、夢を見ながら少しうなされていたらしい。夢の内容は忘れてしまった。忘れてしまうくらいならたいしたことではないのかもしれないし、それとも巡り巡って、何か抑圧されていたものが後々噴出してしまうのかもしれない。

 

・一昨日、昼過ぎにシャワーを浴びながらとてつもない不安に襲われた。簡単に言えば、作業が終わるのかどうか、という不安、半月後に迫った報告の準備が終わっていない、という不安、就職への不安、実家に帰省したは良いが相変わらず進まない掃除への不安、このままよくわからない不安を抱え続けるのか?という不安。他にも色々ある。
風呂場の明かりが、電球を交換しても点かないようで、昼間とはいえ薄暗いなかシャワーを浴びた。給湯器は古いのか、お湯の温度の調整がうまくいかず、水で薄めるものの、大量の湯水を使うことになった。


比較的ぬるくなった湯を浴びながら、不安だからこそそこに人が連帯する手掛かりがあるのではないかとぼんやり考えた。いや、不安を抱えた人々は連帯することもあれば何も出来ずに孤立することもある。また連帯のあり方も一様ではない。不安を抱えた者の連帯の特殊さが、一般的に想定されている連帯とどう違うのか、というのは一つ考えどころなのかもしれない。そもそも「連帯」という言葉は……と辞書的用法や、諸学における用法を調べることはしない。SCでも共助でも互助でもなんでも良いと思う。(「不安」とは……ということも考えず、とりあえず括弧に入れておく。)


とはいえ、例えば困窮している者同士が支え合っても共倒れするだけだろう。概して自分や他人に対して配慮をする余裕が無さそうな……。いや、余裕が無い中で振り絞る配慮には価値があるのか?そんな配慮よりかは、5000兆円でどうにかした方がよっぽどマシな気はするが。


ただ、不安を経由した者にしかわからないことというのは何かありそうだという気はしていて、しかも大概の人はその不安を経験している。不安の共振が起こる瞬間というのがどこか、いつかにありそうな気がしている。もしかしたらその不安の共振はただの集団ヒステリーで、最初湯を浴びていた時に思っていたようなポジティブな結果にはならないかもしれない……。


ただ、例えばケアに従事する人などが、不安の構造を理解しているか、していないか、ということは気になるところである。もちろん勉強してきた「不安」を当てはめるとするならば、それは逆に事態を硬化させることもあるだろう。(わかった気にならないでよ、というやつ。)


一方「現場感覚」を大事にしてその場の「不安」をすくい上げるにしても、その場しのぎになりそうな感じがする(前者よりかはマシかもしれないが。)

 

その場でしか、その人のなかでしか起こり得ないことなのかもしれないが、その場しのぎに終わらない普遍的な含意に至らなければ、より広い連帯は可能とならない、そんな気もした。

 

・今日が13日。1日10ページでも抜書きをつくり、1日数段落でも訳し…をあと5日続けていきたい。本も読むばかりでなく、どこを使うかを考えながら、どう動向を整理するかを考えながら作業を続けたい。