荒れ小屋

ごめんなさい

20151211架空の日記

・気づけば12月が3分の1過ぎていた。

11月もおおむね週1でゼミなどの報告があった。同僚達はもっと忙しそうに分析や報告準備をしているが、自分はのんびりしたもので、どうしたものかなあとぼんやりしていたら一ヶ月以上が過ぎた。

 

・10月末に論文を投稿し、先週その査読が返ってきた。ぎりぎりのところでリジェクトされるところだった。忠実に誠実に修正をしても、掲載されることが無いような気がする。1月はじめが期限なので、12月は積読を崩そうと思っていたのだけど、そういうわけにもいかなくなった。

読みにくい文章を書いているという自覚はあるものの、なかなか直らない。

今回提出にあたって数回書き直しをしたが、今回も一から書き直す必要があるだろう。

文のつなげ方、1パラグラフ1テーマ、パラグラフの連関、基本的なことを血肉にするには時間がかかる。

限られた紙幅で、多くの概念を手短に説明することは難しい。言及しなければならない概念を絞るのも大事なことだろうと思う。影響作用や受容においても、複数の古典を一度に提示し、著者を召喚することは、単発の論文では褒められたことではないのだろう。加えて、今回は、アプローチというか作法についても甘いところがあった。

 

・他人に書いたものを読んでもらってナンボの世界なのかもしれない。その一方で、他人の書いたものに対して、何かしらのチェックを行う機会も増えていく。簡単な誤字脱字チェックから、ある種定式化された「意義付けは?」という質問、より内在的な研究の方向性など。他人の研究で妄想してはいけないが、再構成能力が求められる。それも、持ち帰って検討するのではなく、瞬時にそれを示さなければならない。

そういう営みのなかで、やはり出来の良いコメント、核心を突くコメントと、そうではないコメントの違いがぼんやりと浮かび上がってくる。これは非常に場の雰囲気や、ディスカッションの展開の仕方、場のオーナーである教員の反応などで違いを最初は推し量るしかない。もちろん、組み立ての不備を突く能力を参加者の皆が持っているのであれば、自然に議論の方向性は示され、やりとり自体似たり寄ったりのところに収まることもあるから、最初に雰囲気などの材料で判断することが妥当かどうかはわからない。

この浮かび上がってくる「ぼんやり」というのは、丁寧に教材として整理された形で提示されたとしても、察することが出来なければあまり意味がない……。KYを克服するにはどうすれば良いか。KYが新たな視点を切り開くこともあるだろうが、まずは限られた時間の中で求められる議論を積み重ねることが大事だと思う。研究資源は無限ではない。

先日出た別キャンパスのゼミは、研究の紹介の後、そのレジュメの中では出てこなかった事例の話に脱線することが多く、加えて教員もそれに乗っかってコメントをする(「それは今関係ないだろう」とは言わない)ため、あまり有意義だとは感じなかった。研究科ごとのカラーがあるのかもしれない。他人の研究を意識することは、それ自体が非放任的な場であることを示す証左足り得るのかもしれない。

 

色々守るべきルールはあると思うが、

発言の機会、順番、時間への配慮。

議題の配慮。明らかに脱線していないかどうか。場が閉じた後で伝えれば良いのではないか。人名や書名を持ちだして何か語った気になってはいないか。

発言の仕方。参加者を見る。もごもごしない。

メモをとる。わからなかったことは何か。わからなかったことは様々あると思う。背景知識の共有不足なども含めて。その中で取捨選択と順位付けを行い、ロジックの不備などの議論の展開上重要なことに焦点を当て、自らのコメント自体を場の中で構造化する。

先にも言ったが、他にも色々あるだろう。何か一冊まとまったマニュアルを買うべきか。

 

・忘年会シーズンに入った。あまりアルコールに強い方ではない。この前、飲み会後にリポビタンDを服用したら効果があったような気がする。

このような場で仕事以外の話をすると、教養や文化的、趣味的知識の無さを痛感する。

最近では、文化的オムニボアという、何でもつまみ食いする能力それ自体が資本である…というような視角が流行しつつあるらしい。これは他人の話の又聞きだから、信憑性も何も無いし、調べて典拠や文献情報を挙げるだけの気力も無いので、勘弁いただきたい。