荒れ小屋

ごめんなさい

20140425架空の日記

・10時出発、23時頃帰宅。今日は、夕飯後の睡魔がひどかった。反省するしかない。このあと定期的に日記をつけていくとして、惰眠の後悔ばかり書くようになるならどうしようもない。
 13時から17時まではアルバイトで、アクセス上に整理されたデータと書類を突っ突き合わせながらデータに不備が無いかチェックしていた。毎度あるわけでは無いが、それでもたまに住所記載の間違い、部局の間違いなど出てくるから、何度も複数人でチェックしていくしかない。どうやったら、最初から間違いの無いデータ入力が可能になるのだろうか。また、データの不備にも種類が恐らくあって、絶対に間違ってはいけない箇所だけ確認する、というわけにはいかないものか。作業を進めるために、条件を狭めていくことも必要な気がする。もっとも、この仕事のおかげで僕自身はお給金がもらえているので、あまり迂闊なことは言えないが。

 

・「selector infected WIXOSS」4話を見た。途中に出てくる、マンションか団地のカットがすごくよかった。多分、遊月が家に帰りたくなくてトボトボ歩いてるあたり。廃墟マニアではないけれど、単純に寂れてるのが好き…。このアニメは、背景が個人的に好みで、バトルや人間関係で殺伐とした都市を乾いたタッチで描いている気がする。
 ここからは妄想なのだけれど、その前のシーンで、あきらっきーがるう子に会いたくてるう子の学校に乗り込み、最後に画面の真ん中を走り抜けていくところと対比すると、この遊月は画面を横切ったり、端っこを歩いたりしている。人に会いたい/会いたくないの心理表現を、キャラクターの画面内の移動で表すことが出来るのかなと思った。
 あとは、体育創庫に逃げ込んだ時のシーン、るう子と遊月を見下ろすカットで感じたのだけど、脚の描き方が好みかも、と思った。作為の無い、自然な脚の動きなんて、どこの作品にもあるかもしれないから、それをなぜ良いと思ったのかは自分でもわからないけれど…。基本的に細いけど、まとまりがある(出るところ出ていない)キャラクター造形だと、どうしても肉付きを主張しやすいのが脚ってことなのか。

 

・「悪魔のリドル」4話。スタイリッシュなギャグアニメだ。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【不定期日報】2014/4/25(金)」)

 

20140424架空の日記

・9時半出発、19時半頃帰宅。特に16時頃の眠気が一番ひどかった。体調管理の難しさを感じる。努力目標として、5時間から6時間の睡眠を取りつつ、コンスタントに作業をしていかなければならないと思いつつ、日中眠くなったら元も子もない。本当に難しい。
 作業環境の確保や整備の問題も抱えている。(作業場所のデスク・パソコン数の少なさ、自宅の汚さ。)

 

・日中は割と暑かったので、冷たいうどんやそばを食べようかと食堂に行ったが、暖かいものしか置いていなかった。釜玉うどんでもよかったが、温玉のせいで腹を下すことが予想されるので敬遠。そもそも、食堂で麺類を求める列がいつもヒドいことになっているので、とても並ぶ気にはならないなあと今思った。あの麺コーナーの長蛇の列と、下膳のための列がクロスするように動線計画が出来ているのだけど、下膳の際に使われるベルトコンベアの動作が鈍いので、下膳の列も渋滞になっているのをしばしば見かける。
 結局、購買でかつ丼弁当(306円)を買って、講堂の近くのベンチに座り昼飯を済ませた。右側からは工事のドリル音、左側からはケタケタと笑い合う若者の声が聞こえてきた。メンタルを削られながら、カツ部分のつゆが申し訳程度にかかった白飯を崩して食べた。カツは薄く、しなびていた。

 

・文章を読む際に、しばらくは精読を心がけていきたいと思う。そうしないとなかなか論理展開などが透けて見えない。修行不足。

 

・結局、帰宅してから作業は出来なかった。深夜に「僕らはみんな河合荘」4話を見た。色合いが少々キツい。

 

・人物類型にたいしてバリエーションは無く、重要なのは限られたバリエーションの人々がどのように関係を作っていくか、と一瞬思ったけれど、この関係性自身にもたいして水路が無い気がするし、たいがい結末はくっつくか疎遠になるかで…となんとなく考えていたけれども、こんな複数の条件や方法や行為主体のバリエーションをあれこれ考えていると多分モテないのではと思った。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【不定期日報】2014/4/24(木)」

20131008架空の日記

コメントや質問をしなければならない場面が苦手だ。他の出席者の発言を聞いて萎縮することが多い。なぜ自分はあんな風にコメントできないのだろうか、真剣に考えたことはないのだけれど、最近なんとなくそういう状況が辛くなってきた。学部生だったころのゼミは好き勝手に議論をしていたけども、あまり議論やコメントの作法を気にすることがなかったように思う。現在の環境は好き勝手に言いたい放題…というわけにはいかないので、戸惑うことも多い。(もちろん、学部生時代のゼミ生はみんな、好き勝手言いたい放題のように見えて、議論や質問のコツを体得していったように思うのだが、私の場合はそれがうまくいってないのだと思う。一方で環境の変化についていけてないということもあるのだと思う。)

 

 今日の日記は、自分のコメントや質問が何をしたらよくなるか(よくなるかどうかわからないけど、気をつけておきたいこと。)メモしておきたい。もちろん、ここで書いた方法が無駄な試みだと後々(今この時点でも)判明することがある。割いたリソースの割に返ってくるメリットが少なかったり…。そこはトライ・アンド・エラーということで長い目で見てやっていこうと思う。(悠長なことしてるからこれまでもうまくいかなかったのでは…。)

 

[前提]

 報告者のレジュメを報告時間中にパラフレーズ、再構成する。レジュメの余白でも自分のノートでもいいので、論点をまとめる。一つの報告の中に多くの論点があるだろうから、そこは自分にとって大事なところ、気に入ったところを取捨選択して書き出す。

①報告者が明らかにしたいこと
②そのために用いる方法
③方法に特徴的な概念、専門用語の切り分けや定義
④内容(本論):全部はまとめられないから、自分にとって重要なところ
⑤明らかになったこと、考察
⑥結論

 

[質問・コメントしたいこと]
①報告者が用いる方法が、明らかにしたい対象との関係のなかで適切かどうか。
②その方法に特徴的な概念や専門用語を丁寧に定義しているか。
③その概念と本論で書かれた事例との間の構造が見えるかどうか。
④本論での記述・説明の矛盾があるかどうか。(①の方法と対象の関係、②の専門用語の定義、③の概念と事例の構造化ができているかどうかに気をつけながら。)
⑤記述・説明の裏付けができているかどうか。(資料を用いるもの、数量的なデータを用いるもの。)
⑥記述・説明の代替的な可能性。(この主題とこの方法とこのデータがあるならば、この記述や説明ではない、こういった記述や説明も出来るのではないか。)
⑦結論と報告者が明らかにしたいこととの対応関係、問いと答えの関係がしっくりしているかどうか。

 まだ他にいろいろあると思うし、ここで書きだしたことをまとめなおして洗練させることも可能だとは思うが、暫定的にメモしておく。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【学習メモ】質問やコメントの方法についての戸惑い」

20131007架空の日記

知人とのチャットのなかで発言したことを記録しておく。

 

 「社会」が好きというのは、お勉強としての「社会」科目が好きなのか、それとも本当に嫌気が指すような現象や感情として目の前に現れる不都合で不合理だらけの「社会」を「それでも」好きだと言えるのかどうか。ここで後者の立場なら「やれやれ」と言いながら一過性の時評にも、冷笑にも与することなく、自らの存在をかけて目の前のすべて、こぼれおちるすべてを引き受けることができるのかどうか、問われるのかもしれない。

 

 ある対象について知ろうとすればするほど、話をすればするほど、その対象のことが嫌いになる。知る前の状態に戻りたくなる。知ることは罪であり、引き受けることなのだろうか。知ることが積もれば積もるほど(知識が量として積もるのではなく、行為としての知ることが繰り返されるほど)、疲労が蓄積する。そして、自らがその対象からどんどん遠ざかっていくような気持ちになる。そもそも、ある対象について話をすること、知ろうとすることは、その対象そのものとは恐らく直接関係が無いし、関係があったとしても外縁的なもののような気がする。

 

 ある専門的な言葉を使わないと表現ができない出来事や状態、考えは、時代に制約される。同じ言葉でも、時代によって使われ方が違う。共時的な地域差、また同じ地域同じ時代においてもその言葉を使う界や場によって使われ方が違う。さらに、アカデミックな言葉づかいが人口に膾炙する近現代の「大衆」、加えて日常的な言葉が専門的な用語になっていくことを考えると、言葉の使い方や定義の難しさに直面する。少なくともそういう意識で、差異や翻訳のされ方(外国語の単純変換に留まらない「翻訳」)に気をつけないといけないのではないだろうか。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【日記】知人との会話から」)

20131006架空の日記

 抑圧を基にして創りだされた文明や文化に対して憧れることができない。それらがマテリアルな文化であれ、精神的な文化であれ…。

 

 「ある国で過ごした。ここの人々は(日本よりも)人間らしい暮らしをしている。」という発言をどこかで見かけた。これはもしかしたら自分の虚妄かもしれない。この場合、本当にそこの国の人々は「人間らしい」暮らしをしているのだろうか。それぞれに辛いことや悲しいことがあり、それでも生きていかなければならない状況で、どこそこの国に住んでいるから「人間らしい」と言うことが出来るのだろうか。よくわからない。

 

 人、土地、人と土地に蓄えられた資本、蓄えられた資本が支える文化、それに対抗する営みとしての文化、目に見えるところは違っても、機能的なものは同じのような気がする。もちろん、それぞれの土地、「国」、地域に特有の条件が備わっているにしても。

 

 ずいぶん間違ったことを書いているかもしれない。ただ、日本に帰ってきた今、ブログを書きだした頃に投稿した疑念をもう一度確認しておきたかった。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【日記】場と不安 2」

20131005架空の日記

 予想以上に日本は秋めいていた。これからだんだん寒くなる…。家に帰り、片付けもそこそこにひたすら寝ていた。成田空港から2時間かかってようやく帰ってくることができた。23kgのスーツケース、おみやげ荷物、現地でのコピー資料が入った荷物、パソコンなど入ったショルダーバッグを抱えてとにかくしんどかった。

 

 就職や人間関係など、知人みんなそれぞれがそれぞれの節目を迎えているようだ。いつも以上に取り残された気分がする。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【日記】帰国」

20131004架空の日記

2013年10月第1週目のテレビアニメについて、一言ふたこと感想を書いていきたい。見た分だけ追記していく形にしようと思う。

 

・「凪のあすから」1話…おそらく、どこか舞台となった町はあるのだろうが、これまでのTrue Tears花咲くいろはTARI TARIと比べて世界観がファンタジー的であるように思った。場所の独自性を今のところあまり感じさせない。
 「陸の世界」の港町(漁村)は、「海の世界」の生活圏を侵害しつつあり、さらに「陸の世界」と「海の世界」との間での祭事の取り決めを反故にしようとしている。例えば、「都会」と「田舎」、「都市」と「ムラ」のような区分で物語を描くのではなく、また「郊外」や「住宅地」などを描写するのでもなく、これを見て思ったのは単なる「ムラ」同士の諍いに見えるということである。だが一方で、「海の世界」における因習的な性格、ムラ社会的な性格が目につく。その中で、光がどう育っているかというと、まなかに対する露骨なまでの亭主関白的な振る舞い(「まなかは俺の後をついてくれば…」などのセリフや振る舞い。)、というか父権主義的な振る舞いをするようになっている。それは、「陸」と「海」の対立を内面化しているからこそ、過剰なまでの「まなかを守ってやらなきゃ」という姿勢につながっているのだろうか。また、同時に「ムラ社会」的な物事の取り決め方を(ある程度反発しながらも)内面化しているからこそ、パターナリズムが醸成されているとも言えるかもしれない。
 この行為が、本当にまなかのことを思ってやっていることなのかどうかはわからない。彼がまなかの言葉や本心と対等に向き合う時に、彼の成長が示されるのだろうか。光が、呪いのかけられたまなかの足を見ることができるのは、光とまなかのそれまでの関係に基づいているのかもしれない。しかし、紡がまなかの足を見ることができたのは、彼がまなかの不安を取り除いて、(まなかが海の世界の者であっても)対等に接してくれたからということ、アバンで運命的な出会いをしたことなどの要因があると思われる。親密さを表す行為それ自体は、2人の関係性によってまったく意味の異なるものになる。まとめれば、同じ村で育った光とまなかのパターナリズムな関係性の中で培われた長年の幼馴染としての積み重ねやつながりが許容させた行為と、紡とまなかという所属が違う者同士がはじめから対等な関係でいたからこそ許容された行為(おそらくそれが後の恋愛劇へとつながるであろう。)という違いである。
 「海の世界」の幼馴染同士でも恋愛感情のもやもやがあるばかりか、敵対するムラ同士の人間関係のなかでも痴情のもつれがありそうなので、人間関係の修羅場や思いの行き違いや葛藤などがしっかりと描けていれば良いと思う次第である。

 

・「アウトブレイク・カンパニー」1話…テレビアニメにおいて、段々と「働く」ことを素材とする作品が増えてきているのは気のせいだろうか。働くこと、それは賃労働であれ、交易であれ、経営であれ、戦略性や計画性が強く要求される。(私は働いたことがほとんどないのでよくわからない。)このように漠然と想像している労働、というよりも「お金を稼ぐこと」「サービスや商品を通して人とつながること」「職場内での人間関係」etcに対する想像力と、ファンタジー世界で異世界を旅したり防衛したいるする際のやり込みゲーム的な想像力が接木されているという流れがあるのだろうか。働きたくないでござる。
 この作品自体の感想を述べるとすると、「オタク」に対する理解を異世界でのどう広めていくか、「平等」に楽しめる文化=娯楽の提示が世界に何をもたらすのか、主従関係を乗り越えてわかりあうことは何かというのを拾って見ていけばいいのだろうか。一方で、「オタク文化」の「わかるやつにはわかる」というスラングの多様、及びその文化のもつ包摂だけではない排除の機能的側面なども物語のなかで見えてくるのであれば良いのかもしれない。
 
・「インフィニット・ストラトス2」1話…シャル、ラウラが可愛かった。

 

・「アイカツ!」51話…2年目に入った。ロックアイドルを投入してきた。2年目の大まかな流れの提示という感じで様子見。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【アニメ】2013年10月第1週目テレビアニメ短評」)