荒れ小屋

ごめんなさい

20131007架空の日記

知人とのチャットのなかで発言したことを記録しておく。

 

 「社会」が好きというのは、お勉強としての「社会」科目が好きなのか、それとも本当に嫌気が指すような現象や感情として目の前に現れる不都合で不合理だらけの「社会」を「それでも」好きだと言えるのかどうか。ここで後者の立場なら「やれやれ」と言いながら一過性の時評にも、冷笑にも与することなく、自らの存在をかけて目の前のすべて、こぼれおちるすべてを引き受けることができるのかどうか、問われるのかもしれない。

 

 ある対象について知ろうとすればするほど、話をすればするほど、その対象のことが嫌いになる。知る前の状態に戻りたくなる。知ることは罪であり、引き受けることなのだろうか。知ることが積もれば積もるほど(知識が量として積もるのではなく、行為としての知ることが繰り返されるほど)、疲労が蓄積する。そして、自らがその対象からどんどん遠ざかっていくような気持ちになる。そもそも、ある対象について話をすること、知ろうとすることは、その対象そのものとは恐らく直接関係が無いし、関係があったとしても外縁的なもののような気がする。

 

 ある専門的な言葉を使わないと表現ができない出来事や状態、考えは、時代に制約される。同じ言葉でも、時代によって使われ方が違う。共時的な地域差、また同じ地域同じ時代においてもその言葉を使う界や場によって使われ方が違う。さらに、アカデミックな言葉づかいが人口に膾炙する近現代の「大衆」、加えて日常的な言葉が専門的な用語になっていくことを考えると、言葉の使い方や定義の難しさに直面する。少なくともそういう意識で、差異や翻訳のされ方(外国語の単純変換に留まらない「翻訳」)に気をつけないといけないのではないだろうか。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【日記】知人との会話から」)