荒れ小屋

ごめんなさい

20140507架空の日記

・連休中はあまり連休中という感じがせず、基本的に部屋で作業しながら過ごしていた。しかし、あまり捗らなかった。結構しんどい状況になっている。捗らない時はひたすら写経をした方が良いと風の噂で聞いたけれど、効果あるのだろうか。
 作業が滞ることで、他人に被害は特段無いのだけど、他人からの信頼というか、そういうものは削られていく。下馬評なんかあるとしたら、元々そんなに期待はされていないのだけれど。

 

ソウルイーターノット!の5話を見た。ふくれ顔とか、百合百合とかあざといよなあ。それにしても、いつからプール掃除は青春の1ページの代名詞になったのだろう。実際やってみたら、疲労困憊できゃっきゃうふふどころでは無い気がする。(ブラシで長時間擦って、腕が筋肉痛になりそう。)
 肉体労働だからこそ余計に、魔女に中抜きされたお駄賃(賃金)に文句を言いたくなるってものですな。今期ボンズはノットもチャイカちゃんも自分の好み。(「好み」という言葉以外で自分の好みを語ろう。)

 

ルサンチマンイデオロギーにあふれた論争を見る度に、部外者だから何にそんなに熱くなっているのかがよくわからない。自分の立場はどこか、その立場にいることで生じる利害はなにか、そのなかで利/害と自分の主張がどのように整合するのか(イヤイヤながらやってる場合だってあるよね、的な)、そのあたりがよくわかっていないともやもやするばかりである。もっと色々検討した方がいいことはあるのだろうけど…。そもそも、ここで適当に使った立場や利害や主張というふわっとした言葉が、概念的にどう関係するのか…。(また、別のテクニカルタームで表すとするとどうなるのか…。)
 適当に思いついたことを、あとからちゃんと調べてまとめる時間が無い…。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【不定期日報】2014/5/7(水)」

なお、最後に二行を諸事情につき削除)

20140505架空の日記

■朝、大きい地震があった。自分の部屋で、本の落下に巻き込まれずに済む場所を考えると、デスク周辺しか無い気がしている。寝る時もデスクに突っ伏して寝れば問題が無いのでは。
 といってもそれほど蔵書があるわけではないのだけど…。

 

ブラック・ブレットの2話で、呪われた子のうちの一人が警官に無残に殺されかけるシーンがあり、やはり胸くそが悪くなったのだけど、今度の4話で、ガストレア化が進む夏世を蓮太郎が射殺したシーンというのは2話のその場面の反復だったのかなと思った。印象に残りやすい場面だから、僕自身がそこくらいしか思い出せないという気もするけれど。
 2話とは違い、せめてもの救いは、夏世と蓮太郎との間に(つかの間の)信頼があったということなのかもしれない。ヘタしたら、ガストレア化の進む延珠ちゃんを蓮太郎がその手で…ということも考えられなくもないのかな。
 GUNSLINGER GIRLや、禁書目録/超電磁砲の妹達の想像力の延長線上にあるのかな。

 

(5/9追記)そういえば、主人公は2話で延珠ちゃんに説得されてようやくその子を助けに向かったのだ。結果的に、彼がそこにいたからなんとか助かったという状況がある。

 

不安定な情勢、何をしてもしなくても悪くなる一方の環境のなかで、ひとつひとつの選択肢が自分の、他人の生死を決めることになる。こういう決断主義の蔓延する中で、<力>を求める為政者が多く出現する。それらを巨悪と見なしてどう打ち負かすか、というヒロイックな側面を見つめるよりもむしろ、主人公の選択がどのように意図せざる結果を招くことになるのか、みたいな状況を見たい、と言ったら性が悪いのかな。

 

たまこラブストーリーを見てきた。知人の間では評判が良い。良い映画だった。
 「コンタクトなくしちゃった…」のセリフは、結構いろんな意味が込められているのかなと思った。コンタクトはコンタクトレンズのことでもあると同時に、もち蔵とのコンタクトのことも意味するのだろうし、同時にメガネをかけていた小学生の頃の記憶をさまよう端緒にもなっているのかもしれない。ちょっともう記憶があやふやだ。
 記憶をたぐり寄せた結果、もち蔵との因縁を思い出す。そしてあの糸電話も終盤のキーアイテムとなる。人の縁の基盤となるのが、なんだかんだでreproductionになってしまうのは少し悲しいかなと思った。商店街のあの人もこの人も、それなりに恋して愛して、あの不思議な共同体が出来上がっているのだということにたまこが気づいた時、ああ、この子もそういう役割を果たす頃に近づきつつあるのだ…と考えたら本当に苦い気分になる。そして、二人の恋があれだけ周囲の人にお膳立てされる形でようやく進むということにも、少し複雑な気分になる。(一番大きなお膳立てには、人の生き死にがかかっていた。さすがに殺しはしなかったけど…。世代交代の圧力を感じる…。)

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【不定期日報】2014/5/5(月)」)

 

 

 

20140502架空の日記

・生活のなかで、思いついたことや見聞きしたことを、なんとか形に残しておこうと、何か考えた時に思うのだけど、結局保存出来ずにどこかにいってしまう。自分にとってはそれほど大切なものではないのだろう。
 
・労働で、広報誌に載っている教職員の訃報記事をチェックすることがある。普通目にする訃報記事の構成は、①いついつ亡くなった ②経歴アレコレ(学歴・職歴・功績) ③哀悼の意 って感じなのだけど、今日目にしたものは、テンプレートとはだいぶかけ離れた訃報記事だった。
 まとめてしまえば、苦学と勤勉と大病の末に夭折してしまった職員に対して、同僚が(上記の三要素を含めた形でなおかつ)形式を超えた感情をその場に表していた。これは友情であり、悔恨であり、弔辞であり、恐らく、この氏の生きた証をなんとか残そうとした、そういう意図をとりあえず、こちらは汲むのである。日々の業務のなかで、教員はなるほど晴々しい活躍を見せるけれども、おそらく技官や助手やその他の補助業務に携わる者の、どの程度の活躍が目に見えるものになるのだろう。ある種の階層構造、分業構造になっている巨大な機構のなかで、互いにいたわりや優しさを、称賛を…そういうことを言いたいわけではなくて、とにかく形式ばった定型文で埋められていく哀悼の場で、どれだけ抑えようとしても抑え切れない失意の蠢きが、愛に他ならないのだと思った。

・宗教学の研究室にお邪魔したのだけど、そこに置いてあった本を一冊もらってきた。たまにこういうこともある。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【不定期日報】2014/5/2(金)」)

 

20140425架空の日記

・10時出発、23時頃帰宅。今日は、夕飯後の睡魔がひどかった。反省するしかない。このあと定期的に日記をつけていくとして、惰眠の後悔ばかり書くようになるならどうしようもない。
 13時から17時まではアルバイトで、アクセス上に整理されたデータと書類を突っ突き合わせながらデータに不備が無いかチェックしていた。毎度あるわけでは無いが、それでもたまに住所記載の間違い、部局の間違いなど出てくるから、何度も複数人でチェックしていくしかない。どうやったら、最初から間違いの無いデータ入力が可能になるのだろうか。また、データの不備にも種類が恐らくあって、絶対に間違ってはいけない箇所だけ確認する、というわけにはいかないものか。作業を進めるために、条件を狭めていくことも必要な気がする。もっとも、この仕事のおかげで僕自身はお給金がもらえているので、あまり迂闊なことは言えないが。

 

・「selector infected WIXOSS」4話を見た。途中に出てくる、マンションか団地のカットがすごくよかった。多分、遊月が家に帰りたくなくてトボトボ歩いてるあたり。廃墟マニアではないけれど、単純に寂れてるのが好き…。このアニメは、背景が個人的に好みで、バトルや人間関係で殺伐とした都市を乾いたタッチで描いている気がする。
 ここからは妄想なのだけれど、その前のシーンで、あきらっきーがるう子に会いたくてるう子の学校に乗り込み、最後に画面の真ん中を走り抜けていくところと対比すると、この遊月は画面を横切ったり、端っこを歩いたりしている。人に会いたい/会いたくないの心理表現を、キャラクターの画面内の移動で表すことが出来るのかなと思った。
 あとは、体育創庫に逃げ込んだ時のシーン、るう子と遊月を見下ろすカットで感じたのだけど、脚の描き方が好みかも、と思った。作為の無い、自然な脚の動きなんて、どこの作品にもあるかもしれないから、それをなぜ良いと思ったのかは自分でもわからないけれど…。基本的に細いけど、まとまりがある(出るところ出ていない)キャラクター造形だと、どうしても肉付きを主張しやすいのが脚ってことなのか。

 

・「悪魔のリドル」4話。スタイリッシュなギャグアニメだ。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【不定期日報】2014/4/25(金)」)

 

20140424架空の日記

・9時半出発、19時半頃帰宅。特に16時頃の眠気が一番ひどかった。体調管理の難しさを感じる。努力目標として、5時間から6時間の睡眠を取りつつ、コンスタントに作業をしていかなければならないと思いつつ、日中眠くなったら元も子もない。本当に難しい。
 作業環境の確保や整備の問題も抱えている。(作業場所のデスク・パソコン数の少なさ、自宅の汚さ。)

 

・日中は割と暑かったので、冷たいうどんやそばを食べようかと食堂に行ったが、暖かいものしか置いていなかった。釜玉うどんでもよかったが、温玉のせいで腹を下すことが予想されるので敬遠。そもそも、食堂で麺類を求める列がいつもヒドいことになっているので、とても並ぶ気にはならないなあと今思った。あの麺コーナーの長蛇の列と、下膳のための列がクロスするように動線計画が出来ているのだけど、下膳の際に使われるベルトコンベアの動作が鈍いので、下膳の列も渋滞になっているのをしばしば見かける。
 結局、購買でかつ丼弁当(306円)を買って、講堂の近くのベンチに座り昼飯を済ませた。右側からは工事のドリル音、左側からはケタケタと笑い合う若者の声が聞こえてきた。メンタルを削られながら、カツ部分のつゆが申し訳程度にかかった白飯を崩して食べた。カツは薄く、しなびていた。

 

・文章を読む際に、しばらくは精読を心がけていきたいと思う。そうしないとなかなか論理展開などが透けて見えない。修行不足。

 

・結局、帰宅してから作業は出来なかった。深夜に「僕らはみんな河合荘」4話を見た。色合いが少々キツい。

 

・人物類型にたいしてバリエーションは無く、重要なのは限られたバリエーションの人々がどのように関係を作っていくか、と一瞬思ったけれど、この関係性自身にもたいして水路が無い気がするし、たいがい結末はくっつくか疎遠になるかで…となんとなく考えていたけれども、こんな複数の条件や方法や行為主体のバリエーションをあれこれ考えていると多分モテないのではと思った。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【不定期日報】2014/4/24(木)」

20131008架空の日記

コメントや質問をしなければならない場面が苦手だ。他の出席者の発言を聞いて萎縮することが多い。なぜ自分はあんな風にコメントできないのだろうか、真剣に考えたことはないのだけれど、最近なんとなくそういう状況が辛くなってきた。学部生だったころのゼミは好き勝手に議論をしていたけども、あまり議論やコメントの作法を気にすることがなかったように思う。現在の環境は好き勝手に言いたい放題…というわけにはいかないので、戸惑うことも多い。(もちろん、学部生時代のゼミ生はみんな、好き勝手言いたい放題のように見えて、議論や質問のコツを体得していったように思うのだが、私の場合はそれがうまくいってないのだと思う。一方で環境の変化についていけてないということもあるのだと思う。)

 

 今日の日記は、自分のコメントや質問が何をしたらよくなるか(よくなるかどうかわからないけど、気をつけておきたいこと。)メモしておきたい。もちろん、ここで書いた方法が無駄な試みだと後々(今この時点でも)判明することがある。割いたリソースの割に返ってくるメリットが少なかったり…。そこはトライ・アンド・エラーということで長い目で見てやっていこうと思う。(悠長なことしてるからこれまでもうまくいかなかったのでは…。)

 

[前提]

 報告者のレジュメを報告時間中にパラフレーズ、再構成する。レジュメの余白でも自分のノートでもいいので、論点をまとめる。一つの報告の中に多くの論点があるだろうから、そこは自分にとって大事なところ、気に入ったところを取捨選択して書き出す。

①報告者が明らかにしたいこと
②そのために用いる方法
③方法に特徴的な概念、専門用語の切り分けや定義
④内容(本論):全部はまとめられないから、自分にとって重要なところ
⑤明らかになったこと、考察
⑥結論

 

[質問・コメントしたいこと]
①報告者が用いる方法が、明らかにしたい対象との関係のなかで適切かどうか。
②その方法に特徴的な概念や専門用語を丁寧に定義しているか。
③その概念と本論で書かれた事例との間の構造が見えるかどうか。
④本論での記述・説明の矛盾があるかどうか。(①の方法と対象の関係、②の専門用語の定義、③の概念と事例の構造化ができているかどうかに気をつけながら。)
⑤記述・説明の裏付けができているかどうか。(資料を用いるもの、数量的なデータを用いるもの。)
⑥記述・説明の代替的な可能性。(この主題とこの方法とこのデータがあるならば、この記述や説明ではない、こういった記述や説明も出来るのではないか。)
⑦結論と報告者が明らかにしたいこととの対応関係、問いと答えの関係がしっくりしているかどうか。

 まだ他にいろいろあると思うし、ここで書きだしたことをまとめなおして洗練させることも可能だとは思うが、暫定的にメモしておく。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【学習メモ】質問やコメントの方法についての戸惑い」

20131007架空の日記

知人とのチャットのなかで発言したことを記録しておく。

 

 「社会」が好きというのは、お勉強としての「社会」科目が好きなのか、それとも本当に嫌気が指すような現象や感情として目の前に現れる不都合で不合理だらけの「社会」を「それでも」好きだと言えるのかどうか。ここで後者の立場なら「やれやれ」と言いながら一過性の時評にも、冷笑にも与することなく、自らの存在をかけて目の前のすべて、こぼれおちるすべてを引き受けることができるのかどうか、問われるのかもしれない。

 

 ある対象について知ろうとすればするほど、話をすればするほど、その対象のことが嫌いになる。知る前の状態に戻りたくなる。知ることは罪であり、引き受けることなのだろうか。知ることが積もれば積もるほど(知識が量として積もるのではなく、行為としての知ることが繰り返されるほど)、疲労が蓄積する。そして、自らがその対象からどんどん遠ざかっていくような気持ちになる。そもそも、ある対象について話をすること、知ろうとすることは、その対象そのものとは恐らく直接関係が無いし、関係があったとしても外縁的なもののような気がする。

 

 ある専門的な言葉を使わないと表現ができない出来事や状態、考えは、時代に制約される。同じ言葉でも、時代によって使われ方が違う。共時的な地域差、また同じ地域同じ時代においてもその言葉を使う界や場によって使われ方が違う。さらに、アカデミックな言葉づかいが人口に膾炙する近現代の「大衆」、加えて日常的な言葉が専門的な用語になっていくことを考えると、言葉の使い方や定義の難しさに直面する。少なくともそういう意識で、差異や翻訳のされ方(外国語の単純変換に留まらない「翻訳」)に気をつけないといけないのではないだろうか。

 

(加筆(2017/1/7):元ブログでのタイトル「【日記】知人との会話から」)